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ある投稿から、ヤ学園問題 1/24 日々彦
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山岸巳代蔵の思想についての覚書?10/8
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「自死というもの」野の学舎3/9
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ブログ
 
今、真面目に振り返るための思索メモ
 (Ⅱ、Ⅰ)           大内義之
随想魂の領分
/

26)映画『光』から
25)「クレーマー」から考える
24)ヘルパー青年の「虚ろな眼」
23)戦場でのわが「分身」
22)シルバー職場の送別会にて
21)舌の体操
20)「よい人」と「へんな人」
19)映画「沈黙」から
18)自分のみじめさを知る
17) まず書いてみる
16)戦中―戦後の継続性
15)正月料理のとりとめない話
14)ある弔辞 氷柱の中の蒼穹の青
13)介護〈人生の居場所〉を
12)見ようとしたそのものでなく

11)「カバー」ということ 忌野
10)この新しさは何だ!ディラン
9)ある本質的な「錯誤」の実感
8)「ハッピーバースデー」とは
7)「見ざる、言わざる、聞かざる」
6)人間生命力が極限において
5)中島みゆき「永遠の嘘を--」
4)ヤマギシ家出考
3)E・ホッファー「情熱的な精神状態」
2)優柔不断な少年の未来
1)利己主義の肯定(ニイル)

(付)不思議な詩 (前HPより)
 
自己哲学第2章 反転する理想
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わが学究③ 自己実現と有償労働
 
「日本でいちばん大切にしたい会社」から

これもまた奇跡的な出会いになると思う。『虹色のチョーク』(小松茂美著、幻冬舎)という新刊本のことである。たまたま新聞書評を覗いただけだが、書評タイトルが〈「共生」ではなく「皆働」社会〉となっている。「皆働」とは意味不明、まさか全体主義的総労働ではあるまいが、何かしら刺激的だ。

取り扱われているのは、社員の7割以上が知的障害者の企業であり、そこでの社員の働きである。私は、障害者への関心は特に強いわけではない。ただ、今回これまで考えてきた「自分の仕事」という観点からはあまり見えなかった部分が、「働く」という言葉で思いがけなくせり上がってきた。というのはそこには「他への働き」というニュアンスが外せないからである。

この企業「日本理化学工業」(川崎市)はチョーク製造の大手である。著名になったのは、2008年出版『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著、あさ出版)と、同年放映された村上龍司会の「カンブリア宮殿」によってだった。

ところでこのそれほど厚くもないこの著を、私はすいすい読めたわけではない。それはこの著者自身が気にしていた<サクセスストーリー>的な感覚、それとやはり「知的障がい者」とその雇用工場自体の専門性に戸惑ったからだった。それでもそれへの私の共感が勢い付いたのは、この本の2/3を越えた頃からだった。したがって、映画や小説ではネタバレの不評を免れないが、私の本格的紹介はそこからになる。

この会社は1937年チョーク工場をつくった創業者から始まり、1960年に二代目の現会長大山泰弘氏が二人の知的障がい者を受け入れたことをきっかけに、障がい者雇用に取り組み始める。私はその発端の意味深長な物語にすっかり魅入られてしまった。

当初、大山氏は工場の近くの養護学校の先生から、うちの卒業生を雇ってほしいと懇願され、特に予備知識もないので断り続けた。①ただその先生の二つの言葉が胸を突く。

「卒業後、就職先がないと親元を離れ、一生施設で暮らすことになります」

「働くという体験をしないまま、生涯を終えることになるのです」

それで先生の懇願三度目でようやく折れ、あくまで二週間の期限付き実習生として二人の15歳の少女を預かる。

②さらに実習最終日に中年女性社員の中から、二人ぐらい自分らで面倒見るから雇ってほしいと直談判を受ける。それに創業者の父と相談すると、「そんな会社が一つぐらいあってもいいのじゃないのか」という返事。父は10人兄弟のひとりで、丁稚奉公からのたたき上げの苦労人だったという。

③その二人の少女の仕事ぶりがハンパではなかったようだ。そこで生まれた疑問。

「福祉施設にいたほうが、楽で、幸せで、守られている。そう思っていた私は、なぜ彼女たちが懸命に働くのか、不思議でなりませんでした。当時は、彼女たちにとっては、労働=苦役と思っていましたから。それなのに、何かミスをして従業員から怒られ、『もう来なくていいよ』と言われると『嫌だ』と泣いている。『会社で働きたい』というのです。不思議でした。」

まさにこの①~③は氏のいわゆる未体験ゾーンへの「実学と学究」というものになると思う。私はそれが<純粋理念>から始まっていないことに、どこか信頼感を置いてしまう。そしてそこからその正しさを問う理念に向かう。たまたま法事で同席した禅宗の僧侶に相談すると、「お教えしましょう」として返ってきた答えは次のようなものであった。

④曰く、物やお金をもらうことが人としての幸せではない。

人に愛されること/人に褒められること/人の役に立つこと/人から必要とされること

「この四つが人間としての究極のしあわせである」と。そして付け加える。愛されることは施設や家でも感じられるが、他の要素は「働くことで得られる」というのである。

私には「褒められる」などが自己目的化されないかなど、気になるところはある。ただ謂われていることはわりとまともだと思う。それなりの総合的体系を感じるからである。そしてその「働く」で私は立ち止まってしまった。というのは私がこれまで考えてきた「自分の仕事」とは<自己実現>の営みを指しており、ソローがそのための恰好の学究テキストだったからである。

しかしここで直面した「働く」にはその意味も含まれるが、同時にそれが「職業=雇用されて働く」ことも含むのである。私はこの観点では突き詰めて考えたことはない。私はムラ出以降ほぼ数年、ずっと雇用者であった。それは生きていくために必須のものであり、ここでいう障がい者としての「働く喜び」の必須さと内容はちがっていた。いわば経済行為の本質としては<疎外された賃労働>としての義務感が主たる感覚だった。

とはいってもその現象としては、働く喜び、役立つ喜びもなかったわけではない。決して給与のためだけに働いたつもりもないから、その自発性を強調すれば、「有償のボランティア」と言いうる部分もある。そこを意識化すれば少し唐突だが山岸さんの「われ、ひととともに」の世界にも通じそうな気さえしてくる。しかし「雇用労働としての本質」という問題意識は残ったままである。

昨年726日の相模原殺傷事件の衝撃を受けた大山氏は、「彼らこそ世の光であると知っている私が口を閉ざしてはならない」と考える。その出発点となる考えは「生きていて意味のない人間など一人もいない。重度の障がい者であっても、それぞれが必ず、誰かに寄り添い寄り添われ、必要とされている」にある。さらに1960年に二人の少女を採用して以来、すでに半世紀は経つ障がい者雇用の体験から、氏は「彼らから生きることの意味や人の役に立つ幸せ、そして働く喜びを教えられた」という。そこに「世の光」の根拠がある。

そこから氏が目指し、経営理念の一つにしてきたのは、(それが可能な障がい者であれば)お世話され、施されるだけの「共生社会」から脱却した「皆働社会」を実現することにあった。その揺るぎない発展の出発原点が、上述した①~④の学びから発していることの大きさをつくづく想う。私はその1960年の安保闘争で社会に目覚め、1976年にヤマギシに参画、そして2000年にはそこから脱退した。比較しようのないことではあるが、何が本当だったのかを問うていく、学究の楽しみは確実に増えた。

2017/8/13




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(53)わが学究② 暮らしをつくるもとの事実  ソローから

先回「自分の仕事」について書いてみて、その根幹に置いたのは趣味、自己興味に関わる「自分にとって面白いこと」だった。それは私の年来の持論からすればどんな形であれ、その人固有の「自己表現」だとみなしうる。それは必ずしも衣食の道としての「職業」とは限らない。そうはしたいが、普通にはまずそうならないことが多い。

ところで、ここでソローという人にもう少し立ち戻る。というのは、かれは若年でその生計と趣味と仕事を見事に一致させる試みを実現しているのである。それは、あの眠気覚ましのパンチのようなすべての人々をして、自らの仕事に専心せしめよ・・・・・・」というフレーズの実態、背景にもなっている。ソローは19世紀半ばマサチューセッツ州コンコードのウオールデンの森に、一人で自分の家を建て、耕し、釣りをして、27歳からの2年2か月を暮らす。かれはそのわけを次のように書く(今泉吉晴訳『ウオールデン 森の生活』文庫上226p2016年小学館初版)。

「私が森で暮らしてみようと心に決めたのは、人の生活を作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目を向け、死ぬ時に、じつは本当には生きていなかったと知ることのないように、生活が私にもたらすものからしっかりと学び取りたかったのです。」

「優れた絵を描き、彫像を掘る、創造の能力は良きものです。けれども人が生きて、描き、練り、暮らしを良くする芸術ほど、栄光ある芸術はないでしょう。日々の生活の質を高めることこそ、最高の芸術です。」

「つまり私は、簡素に賢く暮らせば、地球で自分の身を養っていくのはなんら辛いことではなく、楽しみと信じており、経験からもそうと確信しました。このような暮らしは、簡素な国の人には、今も生きる目的そのものです。」

書かれていることはなにも難しいことではない。「生活を作るもとの事実」という。「暮らしを良くする芸術」という。要は食物、住居、衣服、燃料などとその中身のこと。ただその実現の実際は私には想像不能である。私はここで、最初以上の、二度目のパンチを食らってクラクラしたようだ。ともかく驚くのはその事実である。

「私は、5年を超える歳月を自分の手で働いて生きた経験から、一年につき六週間ほど働けば、暮らしに必要なあらゆる代価をまかなえることを発見しました。」

「以上の通り私は、避難場所を手に入れたい学生が払う今の家賃の一年分で、一生使える家を建てられることを発見しました。」

ソローという人の賢明さというのは、その高遠にして切実な哲学にあるばかりでなく、どうもその眼高手低の手堅さにあるようだ。建設費から食費、衣類、日雇い収入、農産物の売り上げ等、私などが苦手とする家計処理がきちんと出てくる。ここでその数字を挙げる余裕がないが、ソローと出会っての驚きの一つは、かの鶴見俊輔さんが『身ぶりとしての抵抗』(2012年)の始めの方で、かれのことを7pにわたって取り上げていることだ。しかもその経費の数字もろとも。

なぜなのか? 鶴見さんの考え方の元にあるのは、「戦争反対の根拠」への問いかけであり、それを「理論ではなく生活のなかに根を持つ」ことに置いた。そしてソローの試みを次のように評価する。

「――現代の社会の複雑なルールを一度は、もっと単純なルールに戻して考え直すべきなのだ。そうでないと、われわれは、今偶然にわれわれをとりまいている社会制度に引きずってゆかれるだけになる。われわれは、現代社会のまっただなかに、ひとりひとりが、自分ひとりで、あるいは協力して、単純な生活の実験をもつべきだ。そこがそのままユートピアになるというのではなく、現代の権力的支配にゆずらない生活の根拠地として、思想の準拠わくとして必要なのだ。」(35p

「ユートピア」という言葉ですぐヤマギシを連想させられてしまうが、私は1973年の特講を受けた前後の自分のことが不意に蘇ってきた。当時私は高校の社会科教師として、担当していた世界史の導入部分で<実習>を取り入れていた。それは火おこし、織物づくり、土器・石器づくり、竪穴住居などのいわゆる「暮らしの考古学」だった。ほんの真似事だったが、ほとんどの生徒は喜んだ。ただ受験で世界史を選んだ生徒にはぼやかれたが。いうまでもないが歴史は政治史中心の暗記物でいいはずがない。このような危惧はソローも感じていて、「たしかに大学は、若者に教養を教授し、実習で鍛えもします。ところが肝心の、人が生きるための知恵と方法は教えません」という。

先回私は一生かけた「自分の仕事」という観点で、「参画」について否定的な見解を述べた。その気持ちは今も変わらないが、ここで私に自分の画動機の重要な部分が蘇ってきた。それはこの<実習>の先に描かれる教育改革の展望だけでなく、生活・暮らし全体の社会革命につながるユートピア志向も込められていた。私は特講だけで参画につながったわけではない。

その象徴的な帰結は、私はムラ離脱後北海道試験場をモデルにした『働かざる者食ってよし』という少々長い小説を書かざるをえなかったことである。私のジッケンチ参画のほとんどは肯定しえない慙愧の時間になるが、ただ別海のあの、簡素だが生活智に満ちた、老若男女対等の人情とそこでの子どもらの佇まい、その世界こそは唯一に残されるべき希望への記念碑だと感じる。

 他方あの学園での<学育学究実学>のなんとも貧しすぎる<戯画>に、ソローを読めば読むほど打ちのめされる。かれは「人は言葉の初歩を学んだら、直ちに最高の文学作品を読めばいいのです」とも記しているのである。あのコミックによれば、それを学園に内緒で実行した学園生がいた。

歴史的時間というものは、なんと不条理、不親切なものだろうか。それは自分寄りにはできていないことを痛感しつつもそう思ってしまう。ソローの記録の初版本は1854年に出ており、日本でも(Yさんによれば)1950に宮西豊逸訳が出ている。もし私が参画前にソローに触れていれば、おそらくちがう人生を歩んでいたのではないかと想像したくなる。ソローは「共同」を否定してはいないが「数少ない例外」だと考え、「前に進めるのは、何事もひとりで始める人です」と述べている。そして今2012年の時点であまりにも遅きにすぎる(私の発見が)が、鶴見さんから「ひとりひとりが、自分ひとりで、あるいは協力して」という微妙な含意を知らされるのである。

ソローは随所で人々が「働きすぎる」と評しており、それが直ちに山岸さんの「なるべく働かないための研鑽」にも通じる。あの時期はまさにソローのいう「何故に我々は、こんなにめちゃくちゃに成功を急ぎ、めちゃくちゃに事業をやるのだろうか?」と問いたくなる環境で、そんな世界に問い、自分自身に問う「崇高本能」の営みは生まれようがなかった・・・・。ただこのことの解明は、私たちの親が「働きすぎてきた」歴史の解明と克服の課題にもつながってくると思う。

2017/8/6

追記) ソローを単なる<生活功利主義者>と見なされないように――
・大学の学位授与式で、聖書とは逆に「週一日働き、あとの六日は自分のために使う」と宣言。
・奴隷制度と戦争に抗議するため、人頭税の支払いを拒否して投獄。また黒人奴隷のカナダへの逃走を助けた。





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(52) わが学究① 「自分の仕事」とは何か

こういう言い方は何かしら「――めいている」とも思うが、私は奇跡的な出会いというものを信じる人間である。いやいつしかそうなってきた。といってもしょっちゅうではない。やはりやめるわけにはいかない旅の途次、いくつかの目印めいたものが見え始め、そのまま途切れてしまう方が多いが、不意に全体の眺望が浮かび上がることもある。

知友Yさんが自分のブログで以下の文章を紹介されていた。それはソロー『森の生活』からの引用であり、一読私も久しく求めてきた世界がそこにあると感じた。このところ自己存在観(自分とは何者か)に照準を合わせつつある私には、恰好の問題意識「自分の仕事とは何か」に、ずばり直面する本質的な内容だった。そしてYさんがここ数年歩んできた試行―自己実現の過程に、おそらくこのソローへの傾倒があるのではないかと思った。

「すべての人々をして、自らの仕事に専心せしめよ。そして本然の自己たるべく努力せしめよ。

--何故に我々は、こんなにめちゃくちゃに成功を急ぎ、めちゃくちゃに事業をやるのだろうか? もし一個の人間が自分の友だちと歩調を合わせていないとすれば、それはおそらく彼が異なった鼓手の太鼓を聞いているからだろう。それがどんな調子のものであろうとも、どんなに遠く彼方のものであろうとも、彼をして自ら聞く音曲に歩調を合わせて行かしめよ。リンゴの木や、樫のように急いで肥料を施すことは、彼にとって重要事ではない。彼は自らの春を夏に変えることができようか。自ら本然的に適合する事態が未だ到来しないならば、いかなる現実をもってそれに代え得るか? 我々は幻想的な現実に難破せしめられることを望まないのだ。苦労八百して青ガラスの天界を頭上に築くべきか? たとえそれを完成しようとも、なおも我々は遥か上方の霊妙なる真の展開を、まるでガラスのものは無きが如くに、必ず凝視するであろう。」
(ソロー『森の生活』宮西豊逸訳1950年)

私がこの表現に強く共鳴するのは、世の中の「理」というものはそのようになっているのではないかという事実、現実に圧倒されてきたからである。普通の世間情報からしても、農人がその田畑に、教師がその子どもらに、職人や料理人がその練達に、学者がその学理の究明に注がれる力量は、人生の総てを賭けたなまじハンパなものではない。おそらく山岸さんもその重要さは充分知悉しておられたのではないかと推測されるのは、あの「学問・頭脳優待」の発想からである。

自らの仕事への専心」「本然の自己への努力」とはおそらく長い人生の過程そのものであり、おそらく様々な実際上の誘惑を超えても貫かれてきたものであろう。その観点で自分を厳しく見直してみれば、いわば<参画>なるものによって揺らぐとは、若年は別にしても人生や仕事についてそれだけ腰が据わっていなかったといってもいい。したがって「幻想的な現実」に依存してきた分だけ、その本来の道への「専心と努力」は空費されてきたのだと感じてしまう。したがってその「難破」は必然だった。

(主題ではないが、この文中の「異なった鼓手の太鼓」については鶴見俊輔さんも注目され、そこから一つ太鼓に呼応したファシズムや戦争の問題を抉られてもおられるようだ。私はここでずばり読み込んでしまうのは、やはりジッケンチ体制のことで、あそこはおそらく「異なった鼓手の太鼓」の音にはかなり鋭敏な環境だったと思う。)

さらにそれ以前に身に沁みていたことは、学園を離脱せざるをえなかった子どもらのことである。かれらは特別な幸運に出会わない限り、直面した大半はパート労働であった。それは薄給、長時間はもちろんそれ以上に、「マクドナルドで十年修業を積んでも、二ヶ月で覚えたマニュアル以上のことをこなすようにはならない」(「ジッケンチ学育外論」、ジッケンチ3)という未来への現実だった。

その結果は、今や社会問題と化してきた「非正規雇用」増大の流れにつながる。それは政府・日銀期待のインフレ率アップを押しとどめるばかりか、それどころでない未婚者の増大、出生率の低下、シングルママ家庭の子どもの貧困にある。残念ながら元学園生たちはその<マイナスの先駆>だったのである。

ところでここでぶっ飛ぶが、ざっと半世紀以上前の私の学生時代の寮生活に遡る。というのは私の旧友たちの葬儀が増えだしたこともあって、会うとすぐ昔話が始まり、元自称文学者や音楽家や革命家たち(いずれもその卵)が気炎を上げる。そこで言わずと知れて見えてしまうのは、人生の終わり近くになって最後に残る悔恨であり、それは結局この趣味というか「自己興味」にかかわることなのである。

特に代でそういうものに出会い、いろんな障害や多少の道草も経て、結果として最後にはそれ専心に磨いてきた<順当な>人生というか、そういう人の<幸福>をどこかで羨望するのではないか。それは何千回何万回と繰り返しても飽きないものだし、死ぬまで続けられるものも多い。それがあったからこそ難局を乗り越え、場合によっては食っていける可能性もなかったわけではない。だからどこかでその道を絶たれた<恨み>というものはかなり根強いと感じてしまう。

私の場合はようやっと六〇歳で書くことの醍醐味というものに目覚めた。ただその主たるテーマがヤマギシの総括なんだから何ともいただけないが、経過し肉感してきたわが時間というものを無にするわけにはいかない。逆にこれこそ取材の要らないわが<宝>なのだとも思いかえしてきた。そのことを「霊妙なる真の天界」まではいかないが、もう少し高みから照射してみると、参画なんて「自分の真からやりたい」ことへの感度がどこか鈍っていたと考えざるをえない。ただ私の場合、その運命的原因は子ども時代から存在したことは、前回に触れた。

とはいえ残念ながら、時代はいまだ「食うために働かねばならない」というくびきを脱することができない。私のような高齢者でもパート労働があることで、なんぼ救われていることか。その点私らの親たちが、ともかく子どもらを飢えさせないためにやってきた必死の奮闘は凄いものだった! 今のような「自己実現」も「人生上の課題や仕事」なんぞは、夢のまた夢のお笑い草であったろう。

そこでしみじみ効いてくるのは、かつては時代の先駆的思想家と見なされていた吉本隆明の以下の語りである。

結婚して子供を生み、そして、子どもに背かれ、老いてくたばって死ぬ。そういう生活者をもしも想定できるならば、そういう生活の仕方をして生涯を終える者が、いちばん価値がある存在なんだ。」
『生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語』

2017/7/31




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(51)問い直す⑩「特講」がこれまでとちがって観える

 旧友からのFBへの投稿に「自分が何者であるのか?どのように生き死を迎えるのか…?という問いに揺らいでいる」とあった。私は久しぶりに自分の<同類>に出会ったようで心強かった。同時にこの問いかけへの私の思索は、まだ中途であることを思い出した。

 くり返しになるが私の論考では、ヤマギシ批判=自己批判テーマがメインではあるが、同時に<自己存在観>に関わるテーマを交錯させてきた。その発想は私の表現では、以下のようになる。
 〈社会を変えようとするなら自分が変わること/しかし今は自分を変えようとは全然思わない/その前にもっと自分を知りたいのだ/自分を知るとは/たぶん自分の変わらないところを/明らかにすること〉

 そこで私は、自分自身の生い立ちや親との関係、自分の理念的なものへの関心の深さ等に着目してきた。いいかえればわが人生について「問いかけ」始めたのである。その中での最大の気づきは「自分がしたいことをはっきりできない子どもは、たぶん本質普遍性や理念に向かうのではないか」という認識だった。これはかなり以前から意識してはきたが、表現としてはムラ離脱以降である。それは自分の欲望や欲求への屈折した態度の結果であり、生き方として決して肯定できるものではない。このことは同時に子育て、学育面にもかかわってくる重要なテーマだと考えている。

 同時に気になり始めたのは、私自身の「特講」体験のことだった。それもこれまではその〈「一体」「無所有」等の真理・真実性への導入的研鑽〉という意識だったが、このところ特講こそ「自分を知る」上でかつてない機会だったのではないかと感じ始めている。

 ちなみに吉田光男さんも手記の中で、何度か自分の特講体験に触れている。
「人間は観念の虜になりながら、自分が観念に縛られていることに気がつかない。私にそれを気づかせてくれたのは、特講である。これなしに自分が自縄自縛に陥っていることに気づくことはなかったかもしれない。私にとって、特講で何かが変わったとか、何かが明確になったというものがあったわけではない。が、すごく楽になったのである。何かが外れたのである。その時はよくわからなかったが、後で考えると、自分の観念の枠組みがストンと外れたのだと思う。途端に世の中が明るくなり、誰とでも仲良くやれそうな気分になった。ものすごい開放感である。」(「わくらばの記」59p

 その印象は私もほぼ同感である。あの解放感や高揚感もわりと鮮明だが、当時のメモにも触れて新たな発見もあった。私に何かを呼び覚ましたのは以下の部分である。
「ベラベラとしゃべっていたおれは自分が恥ずかしくなった。いわゆるインテリ(教師、学者の卵など)は、これまでとは逆転してどちらかといえば劣等生のようだ。よくしゃべったが、それはひたすら実質のない煙幕をまき散らしただけだった。逆にこれまで沈黙していた人々(農家の親父、自殺未遂の少女など)は、後になるほどその本領を現し始めた。この人々は、血肉化された体験のみを彼ら固有の言葉で訥々と語り始めた。今度は先行するおしゃべりたちが沈黙し何事かを考え始めるのだった。」

 いうまでもなく<怒り研>の場面だった。現在の時点で考えれば、ここで取り上げているのは参加者の「自分への問いかけ」の真剣さだった。その観点では私は劣等生だったのである。自己顕示と韜晦をない混ぜた日常的なおしゃべりの次元で参加し、そのうちこれはなんか<集団的セラピー>の一種かもしれないなどという批評に終始し、その場の渦中には参加していなかったと思う。それが変わったのである。かれらによって私は、人が腹の底から発するもののリアリティーというものを明らかに感じだしたのだ。

 これはまさに「教育者が教育される」場面であり、私自身が「学育」者である言葉を実感した最初の体験だった。「自分を知る」という観点でこの場面を想い浮かべると、そこにあったのは「なぜ私は腹が立つのか」あるいは「そこに残れるか」という自分自身への真剣な問いかけだった。その姿は「自分を知る」ために「われに向き合っている」一人ひとりの存在であり、その微妙な重要さは「一体とは」「無所有とは」という理念的な真理・真実への直接の問いかけではなかったことである。したがってその帰結として生じたのは「自他融合と心的自由(事実と思いの分離)」の心地よさ、解放・高揚感だったのだ。

 そして私が参画を決めた根元的動機は、まさにその心地よさにあったと思いだす。しかし参画して以降、最初に感じた違和感は、ここはどうも特講で体感した世界とちがうのではないか、だった。どこまでも「なんでや」と問いかけ続けられるような研鑽機会はまずなかったし、それに代わる研鑽学校なるものは、どこかお勉強的な学習が多かったのである(自らも係機会の多かった吉田さんはそれへの危惧を随所に表明されている)。それこそ今にして思えば「けんさん(真なる研鑽)」喪失の兆候だった。

 今ふり返るにその違和感こそ、実顕地変質へのたしかな兆候だったのだ。その手掛かりを見失った私(ら)を待っていたのはもうくり返すまでもないだろう。参画以降、仲良し・親愛の自然な心情がいつの間にか実感を失い、「ねばならない」信条と習慣に変質していく。その流れを見れば、イズム理念への傾倒よりも、その真実性への絶えざる(自他への)「問いかけの連続」にこそ真価があると感じる。理念を信条化していくことは、決して理念の正当性を保証しない。逆に理念のドグマ化、宗教化を結果する。

 私の特講受講は1973年のことであり、ざっと三十数年も前のことであるが、特講というものがこのように見えたのは初めてのことだった。そしてこのことは当然ながら、この間「自分はこの世界の中で何者なのか」と問い続けてきたことと直通してくるのである。ただそれはどこまでも孤独だったし、特講は集団だった。しかし特講は「孤独な自問者」の集合であって、集団内の交流に直接の意味はないと思う。あるいは自己研鑽者のその営みのままの集合体といってもいい。

 とはいえ私の特講参加の主たる動機は、やはり「「自分とは何者なのか」から発していたはずだった。

2017/7/26




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随想27)<小さな正義>と大いなる自発  あるボランティアから

 早朝、駐輪場職場で通路掃きしていたら、掃除道具片手のじいさんと出会った。汗びっしょりで、顔はしわくちゃ、髪は真っ白。でもそれほどしんどそうでもない。
「ひょっとしたらボランティアですか?」
「そうなんだよ」
「私の方は給料もらってますが、たいへんですね」
 彼は立ち止まってぼくに向き直った。
「いや逆だよ。それならおれの方はかえって断るよ。好きでやってるんでね」
イメージが一変した。声は昂然として目が輝いていた。ぼくは少々ヘドモドして、それは素晴らしいですねと口ごもりながら、その場を離れた。

 おぬしはなかなかかっこ良かったよ、とまず思った。そして最近はこういう人も登場するんだ、と時代を想った。世は災害ボランテイアばやりだが、身近でこういうシルバーもでてくるんだな、と。しかし年金充分で暇が多かったら別に不思議ではない。でもこちとらはそこまではね・・・・

 こういうのを何というのか。それはすごいという感動と同時に、なにか<裏>があるんじゃないかという勘繰りになり、さらにそれが何もしない自分への弁解にもなっているようだ。
 前に紹介した駐輪場へのクレーマーの件では、あれだって実質は交通安全ボランティアや説教ボランティアとかわるものでもない。ところがみな堂々と正義と理想を説く。いわばその押しつけがましさにたまりかね、「あんなの何かうっぷん晴らしだろ」と同僚はぼやいていた。それとは程度はちがうし、押しつけがあるわけではないが、ふと思い出されてくる。


 そのうち、別のボランティア清掃老人と毎朝バス停で出会っていることを発見した。ぼくら家族も居住している県営団地の住人だった。もう慣れているせいか実に淡々としたもので、おはようと声をかければ答えるだけだが、特に不愛想というわけでもない。そして最初に挙げた老人のような<衒気>がない。実に当たり前に、そこらの風物と一体となって動いているだけだったので、最初は雇用者の一人かと勘違いしていた。団地の役員と話していて確認できたことだった。

 これはどこの公営住宅も似たような流れかもしれないが、低所得者対象ということもあり廊下、フロアー、広場等の掃除、草刈りは基本的には<勤労奉仕>だった。それがいつしか自治会費の操作等で「雇用」の仕事に替わりつつある。ぼくら<ただ働き>経験者からすれば少々残念な思いもある。しかしその流れに反するかのように、この老人はいつしか降って湧いたのである。これはまあ、ぼくには比較できる資格もないが、最初に挙げた老人以上にかっこ良い、見上げた御仁だと感じる。

 ともあれ自分の生活や人生の部分でそういう社会貢献的な要素を担うことは、普通に考えて自分の密やかな自負や誇りにもなり、生き方の支えになることはまちがいない。ただ同時に、こういうことって自分ならどうなるだろうか、という問いが浮かんできた。いやはや、これはあまりつっこんで考えたことはないし、自己目的になったこともない。もっと平たくいえば「自分の生きる理由」とか「存在価値」ということになろうが、これならずっと考え続けてきた。しかしその嵩上げというか、価値の上積みのようなことは考えようがないことだった。

 ムラ時代は観念として<イズムの生き方>なるものが、自分を支えた生き方だった。われらは「光栄ある先駆者」であり、「悪魔讒謗にも怯まず」とか「あれば食べる、なければ食べない」という境地は、どちらかといえば学習されてきた観念だった。<拡大>の現場ではある支えになることはあっても、ムラ内の暮らしの中では体制随順とそれへの依存で、自分が(一人でも)「それに拠って立つ」という自覚の部分はほとんど空虚だったような気がしている。

 むしろムラ出以降、観念ならぬ現実として生活への危機感に常に脅かされてきた。例えば住込み管理員なる職業に、ぼくが前歴問わずに簡単に就職できたのは、それへの成り手がない社会的蔑視が大きかった。しかし逆にそれがぼくには、実にありがたいことだったのだ。そして自分の当時の「生きる」を支えていたのは、「いつかは・・・」という思いだけだった。その思いだけで自分が立っていた、いや立たせていた。それこそヤマギシ時代には感じたことがない実感であり、「必死の自発」だった。

 今もブログなどでこういうことを書き散らしてはいるが、ぼくにはこれはかなり必須の場、すなわち生き甲斐なのである。しかし近い将来、アタマも呆け目も霞んでくる時が必ず来る。ともかくのその時まではわが「心の真実」を刻み続けたいとねがっている。ただこの営みはちょっとボランティアとはちがってくるだろう。ぼくが感じている「書く」という表現活動の直接の動機は、自分がわからないことをクリアーにしたいというすこぶる<利己的>動機に基づいている。しかし同時にこれは自分だけの思いではないはずという期待もある。これは主観であるから、危ういし、きつい。

 ここで「ボランティア」という言葉をぼくなりに定義しておくと、「他からの報酬を一切期待しないで、自分が心からやりたい<社会貢献>的行為」ということになると思う。となると当然にもこの<社会貢献>という言葉の範囲が問題となる。最も解りやすいのは、何といっても外見からもよくわかる勤労作業的なものになる。それはいわば<小さな正義>であり、そこから「世のため人のため」の「社会正義の実践」の世界へ広がっていくだろう。

しかしいうまでもないが社会貢献というものは、ありとあらゆる人間の営為をふくむ。ここでたまたま掃除の例を挙げたのは、対象というよりその自発の姿に感じたからだ。精神的、芸術的分野での表現活動だって充分社会貢献は成り立つ。当時はまるでそうは見えないのに、時代を経て素晴らしい貢献になりうるものもある。ただそれらはまず貢献自体を目的にすることはない。そこでは「真実」は入るかもしれないが、「正義」や「理想」の名を冠することはまずないのではないか。

2017/7/18





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(50)問い直す一体ならぬ同化、ひっかかりの我執化

時に回り道することもあるが、私にとっての焦点は変わっていない。「問い直す⑦<自発的自己抑制>の構造」の中で取り上げた問題意識をさらに私なりに深めておきたい。例によって吉田論考からの引用である。

〈(前回紹介した資料の最後)「――しかしこの自立がないところに同化はあっても一体はない。つまり個のないところに私意は存在しないし、したがって公意も存在しない。私意尊重公意行も成り立たない」(113p)を承けての次の段落。

〈ヤマギシの中で私意の表明を妨げていた言葉に「ひっかかり」と「我執」がある。……これ(ひっかかり)は誰にでも起こりうることで、それが物事を考える出発点になる。しかし村では、ひっかかることはこだわることであり、良くないこととされてきた。こうした先入観の下では、自分の思い悩むことなどはとうてい出すことができない。それは解消されずに個人の内部に蓄積されることになる。そしてひっかかったり、こだわったりしたことは、我執として否定されてきた。そうなると自分が一番思い悩み、考え、解決したい問題が、闇に葬り去られることになる。本当はそのひっかかりこそが、研鑽さるべき最大なテーマの筈なのだが……。2000年問題以降、ずっと悩み、考え続けてきて、ようやく悩みひっかかることこそが、自分が真正面から取り組むべきテーマなのだと気づくようになった〉(113114p

 あのマスコミ指弾の大波の下でも当時の村人の日常は決して重苦しかったわけでもなく、日常的な明るい語りや笑顔はそのままだったであろう。しかし今思い返してみれば、吉田さんの言われる「同化」という指摘は微妙で大事な部分を浮き彫りにする。一体というより、日常的な集団<同化>の姿は一見明るかったのではなかろうか。しかしこの同化の明るさの背景に進行していたことは、そんな生易しいことではなかった。

<上下階層化>はさらに強固に確立され、実はメンバー同士の横の付き合いが何となく憚られるもの、いいかえれば一列横のつながりが次第に解体しつつあったのである。それは吉田さんの「会員時代よく会っておしゃべりしていた女性たちが、参画後は会ってもお互い素知らぬ顔して通り過ぎる、といった光景がよくみられた」(30p)という印象とも符合する。いいかえれば「けんさん」による心の肝心な部分を交流し合える機会のない関係の実態は、どこかでそれとはない孤独感を漂わすことになっていたのではないか。

こういう部分について山岸さんは何か言及していることはないのか? ムラ出後、私は改めてその個所を発見したように思ったのは青本の以下の部分だった。

「……万一不幸と感じる事があるなれば、それは何処かに間違いがあり、その間違いの原因を探究し、取り除くことにより、正しい真の姿に立ち還ることが出来るのです。幸福が真実であり、人生はそれが当たり前のことであって、不幸は間違いです。」(8、幸福一色 快適社会)

 もうすでに暗記し続け、今でも思い出すあの部分である。いったいこの文章は何のためにあったのか? まったく寺の坊さんがその中身も顧慮せず経を誦するように、覚えていただけだった。しかしこの文章の現実の効用は、表面下でメンバー個々の不幸感を抑圧するように作用しただけではないのか。その「原因を探求」するという方向とはまったく逆に。というのは、山岸さんは「不幸は間違い」と断定しながら、決して「不幸と感じる」こと自体を否定していないのである。

にもかかわらず多くの人は「不幸と感じる」なんてそんな人はこの「幸福一色快適社会」に居るはずがないと、かぶりを振ったであろう。そして多少のひっかかり、こだわり(それこそ不幸感の始まりといってもいい)があったとしても、それは良くない恥しいことだとみなしたであろう。おぼろげながら私のなかでもその記憶が甦ると、涙が湧いてくるくらい滑稽に感じる。

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しかしこれは笑い事ではない。このことは「私意」形成の(同時に「けんさん」の)大前提となる自分の内面を探る自己観察、自己凝視を、何となく悪いことをしているようで無意識に避けようとする自己規制を生じる。しかもイズム信奉に真面目な人ほどそうするだろうし、それができないとついつい自分を嫌悪し否定することもないとはいえない。そのように思い当たってきたそのことを私は「自発的自己抑制」と命名せざるをえなかった。このことは極論すれば、自己内面、本心、本音の喪失にまで帰着しかねない。そこまでは行かないにしても、その貧弱化は避けえなかったであろう。

外界への無関心、自己内部への沈潜という営み・生き方も社会的には充分ありうるし、文学などという営みはそのことを不可避とする。しかしわれらが生き過ごした、ああいう<同化必須「けんさん」不能>の近接集団は、学園生も含め、読書や文学ないしその他の内面表現不毛の環境になり果てていたのである。にもかかわらず、その学園生の中から密かに読書を継続し続け素晴らしい表現者になりえていた人が存在していたことは、唯一の救いである。それはいかに抑圧しようと挫けない人間精神の強靭さを表して余りある。

2017/7/10






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(随想26) 柔らかな〝光〟  映画『光』から

河瀬直美監督作品『光』を観た。この監督の映画についての評判は時折聞いていたが、観るのは初めてである。感ずるもの多くその余韻はかなり続きそうなので、さし当たりの感想を書き留めておく。

 のっけから興味をそそられたのは、「映画音声ガイド」という世界だった。盲目ないしそれに近い人が映画を鑑賞する。えっ…ほんと。まずこういうニーズがあること自体がショッキングだった。原作を点字で読むあるいはテープで聞く、というイメージしかなかったという自分の無知。映像は見えないのに映画を鑑賞できるって、いったいどんなことなんだろう…。

 女主人公美佐子は、その人たちに音声によるいわば<場面の紹介・伝達>をするのが仕事である。さらにその原稿を推敲するグループが登場する。そこに何をどのように伝えるかについての多岐にわたる考え方が交錯する。いわば問われるのは、ぼくらのような目明きが普通に映画を鑑賞できると同じように(といってもどこまでのレベルなのか?)可能な音声表現を探っていくのだが、これは容易なことではない。場面に合わせて一通り「ナレーション」すれば済むということではない。

 ついでぼくが関心をそそられたのは、男主人公中森のことである。もはや盲目寸前で、黄色っぽい色調の形の不分明な世界、そしてその多少の明暗しかわからない。彼は著名なカメラマンであり、その作品が高く評価される映像作家だった。しかし今は作品は撮れないままだが、カメラを外すことはできない。いわば画家が盲目になって絵を描けなくなった状態と変わらない。ぼくは直ちに、頼る手段がそれしかないにもかかわらず、それを使えない表現者の苦悩を想う。

 おこがましくも表現したいことの内容レベルは問わないが、ぼくだって同じことである。パソコンが見えなくなったらたちまち難渋しながら、だからといって即パソコンを放棄できないだろう。実際視力が次第に呆けてきて長時間の作業は無理であるから、近い将来その覚悟も必須になるだろう。

 この男女が互いへの違和をぶつけ合いながら次第に心通っていく過程のレアリティーは、実際に映画の時間を辿ってもらうしかない。ただぼくなりに感じたのは、互いに表現者であったことが大きかったと思う。美佐子はことばによる、中森は映像による。すでに不可能を知りつつ最後のシャッターを押す対象を美佐子に選んだ中森は、美佐子の顔を手探りで触れさせてもらうのである。見えない映像をわが手で確かめるように。それを静かに受け入れる彼女。その必然の切実さに思わずぼくは涙していた。

 その後、彼の現役時代の見事な作品が残る夕日の現場に、二人は旅する。それぞれに何かを確かめに。そして彼はその場で愛するカメラを投げ捨て、そして彼女はおそらくことばを消したのである……

 買い求めた解説書の巻頭に見事な批評の文章が載っていた。その核心は以下のようだ。
〈迷える大人たちが大切なものをあえて消した時、彼らの人生のその先に、柔らかな“光”を見たのは私だけだろうか? 
 人は何かを失って何かを得るのものだ…。
 映画は語る。「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」と。〉
Colum映画『光』安藤紘平)

 ぼくも今ただ今の表現にずっとこだわり続けてきた。しかしその先が必ずしも見えているわけではない。それは自分の表現の未熟さをさらに克服していくことしかない。ただこの映画のような予感――「大切なものをあえて消す」ことはいのちの喪失でなく再生なのだ――の意味をそっと傍らに置くことで、無理なく生きていけそうな気がする。

2017/7/4





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(49)問い直す⑧<オールメンバ―研>の行動について

 先回クレーマーのことを取り上げたのは、確かに現在の必要からであった。これまでわがパート職場でかなり面倒だったクレームの主要問題が今春一挙に解決し、あれっていったい何だったのと見直す余裕が生まれた。そのことを私なりに整理しておきたくなったのは、なんといてもあんなのは二度とはごめんだというシビアーな印象が残ったからである。

ところでそれについてのコメントに返事を書いているうちに、私の意識は一挙に2000年のヤマギシ時代に逆行してきたのである。

さよう、あれこそはこの駐輪場クレームの数百、数千倍に匹敵する巨大クレームであった。あのマスコミ、反対派をはじめとした大小様々な批判、非難、抗議の火炎に包囲されながら、ムラの対応はほとんど無策とは言わないまでも、とった措置はかえって火に油を注ぐものでしかなかった。いわば<外部クレームに対する逆クレーム>はほとんど不発だったのである。その中ではマスコミ各社への反論電話、投書が主たるものだったが、ただそれ以外でやはり蘇ってくるのはあの反対派への直接の働きかけだった。

それはたしか<オールメンバ―研メンバー>の総決起的研鑽会で決議されたことである。私もそこに参加して「おいおい、そこまでやることなのか」と半ばおののきながら、みなといっしょに手をあげていた記憶がある。「無理暴力を通さずに、智恵と理解の研鑽で」の言葉は今も直蘇ってくるくらい骨身に沁みていたはずであった。だが、そこではそれに反することを決行することに賛同していたのである。しかし私にできたことは、新聞社支社に出向いて抗議の意思を表明してくることしかなかった。その後、この流れによる反対派(元村人)への直接の暴力行使で、マスコミに取り上げられたケースがあった。

このことについて私は以前にも触れていると思うが、ここ1年くらいではHPでの「反転する理想」のテーマの中で書いた。特に告白的というわけでもなく、私に関わる事実として。この<告白>云々をもう少し突っ込んでおくと、この事実はたしかに私にとって<黒い汚点>であるにもかかわらず、これまで少しあっさりしすぎていたのではないか気になっている。事実遇った過誤はあれこれ躊躇してもしようがないという思い、あるいは平気を装っているのかもしれない。私の長い孤独がそれを当たり前にしていたとも思う。

こういう突っ込みが私に中に生まれたのは、いうまでもなく吉田光男さん語録『わくらばの記』にある「問いへのさらなる問い」に触発されてきたからである。同じあの場に居合わせた人は私だけではない。かれらはどう考えているのか。そのことについて公表できる人だけでなく、いない人もいると思う。私が公表できるのは、自分では一応誠実だと考えてはいるが、そのことについてなにがしかのシビアーな理由を抱えて、沈黙せざるをえない人もいるかもしれない。いわばそうした全体がこの事件の全情況であり、同時にこのことへの究明への糸口になりうる。

そして今回のわが職場でのクレームのことである。私はいささかナイーブになっているのかもしれないが、妙に因縁的な感覚に襲われる。この駐輪場でのクレーム事案にぶつかっていなければ、私はこの場でオールメンバ―研のことなぞ書かなかったであろう、と。それも普通なら過去のそのこと自体から直接書いていたはずだが、今回は私の目前で経過していた<現在>が過去のあの事態を呼び寄せたという感覚がある。

私自身はそれほど違和感があったわけではないが、「過去との対話」は一貫して私のメインテーマであった。しかしいうまでもないが、現実は進行する現在の波が過去をどんどん遠ざけていく。この必然的な困難のただ中で過去に照準を合わせ続けることは、ある意味で普通ではない。しかし私のレベルでは到底及ばないことだが、例えば日中戦争時の戦場の実態究明を今も続けている人の存在とその意義は、単なる歴史研究以上の計り知れないものがあると考える。

ところが今回はいささか趣を異にする。起こったのは目前の現実が過去に直通したこと、それはいいかえればあの過去の事実は現在に類似したモデルを持ちうるということ(あるはその逆)でありうるかもしれない。私がその現在について考えたことは、私自身の「正しさへの感度」がいかに弱いかという発見だった。あのクレーマーたちがぶつけてくる熱い主張にいわばヘドモドしていたのである。雇用者としての「立場」もあったにしても、それを超える。

そのことを私はまず同僚からも感じられる「見え透いた〈正しさ〉には必ず〝裏〟があると思う習性」として押さえてみた。それはしばしば何もしないことの言い訳につながる。さらにこれに関連する、「正しさ」理念よりはずっと内発的な「心の真実」(レアリティー)に依拠してきた、これまでの私の思考習性を意識している。そしていまそれらに加えて2000年当時のあの時の<躊躇と随順>(「無理暴力を通さず・・・」に反することへの躊躇的賛同)が蘇るのである。

いわば、あれは「不都合な真実を隠蔽するために」「目的のために手段を択ばない」決意の表明だった。そのことについてわずかに私が容認できるのは、貧苦のためにそうせざるをえない場合である。ムラを出て以降それに近い状況に見舞われなかったとは言わない。しかしそこまで追い込まれてはいなかった。しかしあの決意が生じた時点ではだれも飢えてはいなかった。

それならばなぜ? それでも絶対に守り抜かねばならなかった理想があったから? そこまで画き得ていたならば私のあの躊躇は何? しかしおそらくそこまで画き得た人がいたはずである。そして私はその彼に最後は従ったのである。

これまで考えたことの繰り返しかもしれない。しかしどこかで考えたことのない新たな片鱗に触れるかもしれない。ともかく「問いへのさらなる問い」に向けて考え続けることを已めるわけにはいかない。

2017/7/1




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(随想25) 「クレーマー」から考える正しさと真実

このところ突然「クレーマー」について調べ考えることになった。これまでの継続テーマとは必ずしも無関係でないので、ここでも紹介する。それはいわゆる世間常識に関わる問題であって、私がシルバーのパートとて勤務している駐輪場が対象となる。私にはここは景観は乏しいが適当に体力も使え、年金の補充もできていい職場だと思う。ただ大都市ということもあろうが、意外に大小様々なクレームが多く、時にはうんざりすることもある。

これまで最も多かったのは1日単位の一時預かりで、当日都合で取りに来れなかった残留車の追加費用の問題だった。それにはまず「後払い札」を取り付けるのだが、それを翌日早朝と正午以降の二回に分けている。ところがまだ券の有効期限の丸1日が来ていないのに、貼り付ける場合がある。それでは納得しない、期限が過ぎてからにしろというクレームがずっと断続した。こちらからすれば清算時は日時が印刷された前日券を参照すればいいし、またそれをやれば私らの労働荷重は目に見えている。始めは端なる不満の表明だったものが、いつしか抗議になり、それも私らを掴まえてガンガン言い出す場面も出てくるようになった。それに伴ってクレーマーという存在も目立ってきた。

私自身もはじめはそれほど困惑するほどでなく面白く眺めていたが、それがかえって態度が悪いと凄まれ、肩を掴まれ揺さぶられる険悪な事態ともなった。それ以来、場長からの現場指導も「謝罪に始まって謝罪に終わる」ということで、私も自粛してきた。実際朝の大量入車の繁忙時に、そういう紛議に一旦かかわるといつ終わるかわからない。それも幸い、今春から当局がクレームを受け入れ、長い懸案が解決した。もちろん私らの作業量は増えた。もっともそのような集団的クレーム自体は無くなったので、その分は楽になった。しかし場内のバイク走行の危険性や最大1週間を越える車の保管所移動の問題など、他のクレームは自体は已むことはない。

それはそれでいいのだが、私は改めて「クレーマー」という存在に目が行った。その中でも現場で私らヒラの整理員を掴まえて非難、抗議してくる<直接行動派>の存在である。それも私らでも忙しいただ中で、かれらも暇じゃないだろうに、くりかえされる。しかし当局に物申すなら昨今はSNSを活用したもっとスマートな方法はいくらでもありそうだし、その方が要求は通りやすいと思う。だから彼らのようなひたむきな行動は無意味だとは思わないが、事実は投書、文書告発の情報手段の方が解決に役立ったし、そちらの方が本物のクレーマーらしい。ところがそこで私はハタと立ち止まったのである。

私が気に付いたのはかれら<直接行動派>の「マン・ツウ・マン」的雰囲気だった。かれらと私ら整理員は現場で対面し、論議し、向き合う。その間で交わされるのは、ほとんどがこちらの加害責任を問う大義名分、正しさのくり返しであり、こちらはそれに対する謝罪の繰り返しであった。ここで私は唐突にも閃いたのは、人間が叱られ指摘されて育ってきた教育機能のことである。それは現代の<優しさ>教育動向からは逆になるけれど、体罰と暴力さえ排除できれば必ずしも否定できない内容があると思う。自分のことはいつも自分がわかっているわけがないからである。しかもそれは一斉授業ではないマン・ツウ・マンとしての固有の音声と表情を伴っていて、特殊事情を除いては電子機器に代行をさせる質のものではないと思う。

もちろんこの場では、それによって駐輪場側が〝教育〟されているのであり、私らはその意識もなく結果としてその内容は記憶に長期間残る。これこそ実は注意・通告・処分以前の<実効>というものではないか。そこから私は考えざるを得なかったのは、これまでも普段はあまり意識にない「正しさ」という概念だった。というのは、私は外部注入的な「正しさ」理念よりは、ずっと内発的な「心の真実」(レアリティー)に依拠してきたからである。(このことは以前にも取り上げた<真理観>と<自己存在観>との対比ともつながってくる)だからこういうことが起こるたびにぶつかる先輩同僚のボヤキ「あんなのは、自分だけ好きなこと言ってるうっぷん晴らしだ」という見方に私は同調していた。どうも私(ら)にはもっともらしい「正しさ」には必ず〝裏〟があると思ってしまう(あるいは思いたい)習性がある。これはやっかみもあると思うが、人の〝裏〟を聞いて安心し、それが何もしないことの言い訳になってきている節がある。

それでもおそらく「正しさ」の部分は残る。おそらくその「正しさ」をクレーマー諸氏は担ってきたと思う。たしかにわれらはテレビの向こうの「巨大な正しさ」について知ったかぶりはできるが、そのこちら側の「小さな正しさ」については、意外に不見識・盲目であると思う。特に職場がらみの部分は、こっちが決めたり、正したりする分野ではないという感覚がある。それは雇用されている身分としては当然でもあろうが、それにしてもただクレームされないよう小さく縮こまって事勿れでやってきている私らの日常がある。それがどうも気になりつつある。もっと対立的にならない、こちらからの「逆クレーム」もあるのではないかと……

2017/6/26




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(4) 問い直す⑦ 自発的自己抑制>の構造

先回、いうなれば「自分以外の何者かになろうとする」願望について考えたが、そこで私は「今ある自分の姿」とは何かが改めて問われたように思う。その過程で、私はどちらかといえば単刀直入に問題に当たってしまう自分の性急さのようなものに気づかされてきたが、吉田さんにはいろんな情報に目配せしながら手順、段階をしっかり踏む慎重さがある。そこにこそ問い直しがくり返しでなく、深まっていく要因があると改めて感じる。「自分」という言葉に関わりがある「私意」について触れた以下の輪述もそうである。

〈前に私意尊重公意行を考えたところで、私意の尊重がないところで公意は成り立たないと書いた。しかし、私意が尊重されるためには、私意というものがはっきり成立していなければならない。当たり前の話であるが、いつ、どこでも、自分の意思・感情・欲求等を自由に表明できるかと言えば、事はそんな簡単なことではない。(中略)
「こんなことを言ってはまずいのではないか」
「流れに逆らうようなことは出さんとこう」等々
-こういう自己規制のようなものが働いて、自分の意見を出さないことがずいぶんあった。これは私だけでなく、多くの村人の心理を捉えていたように思う。だからどの研鑽会もいわゆる公式発言が多く、中身の乏しい面白くないものになっていたのではないか。
-これは一人ひとりの問題でもあるが、根本は自己規制を促すような村の気風の問題である。調正所を中心とする指導部門がテーマを通じて「これが正しい考え方だ」と方向づけると、どうしもそれに沿って考えようとし、本心とは別の意見を出すことになる。個の自立が妨げられ、それをまた一体と勘違いしていた。しかし個の自立がないところには同化はあっても一体はない。つまり個のないところ私意は存在しない。私意尊重も公意行も成り立たない。〉(112113p

私も当時の自分の私意についての理解について、まったく同様のものを感じていた。私はムラ出後それを単なる自己規制というよりもっとシビアーに「自発的自己抑制、いいかえれば自己感情への自らの意識的ないし無意識的抑制と捉えなおしてきた。ただ当時は全く逆にそれを指導部門に沿っていく<自発的自由の実践>だとみなしていた節がある。

もちろんそれも純粋な完璧さはなく、そこになんらかの無理があったことは、のちにそのことをイヤーな虫唾が走るような嫌悪として、いやでも思い出さざるをえなかったからである。私もかなり長い間常連だった「経営研」その他の研鑽会(ムラでは〝上級〟と見なされていた)なるものの場面や雰囲気は、今でもありありと思いだしてしまう。忘れようがないのである。そこでは

〈リーダー格の誰かが言いだすと、ほっとしたような首振りがさざ波のように広がるのだった。その沈黙の原因はいうまでもなく自分の発言がその場の“正解”として肯定されるか否かの不安があったからである。こういう“自己検閲”がくり返されると、本来真意を吐露すべき研鑽会では“フン詰まり”状態となり、その場の“正解”なるものに合わせ続けているうちに、自分の本音は何だったのかすらぼやけてくるのである。〉(「ジッケンチとは何だったのか、1」)

 いや、ぼやけるどころではなかった、自分の<本音>すらなかったといってもいい。なんでそんなことになってしまったのか? それももはや信仰者に限りなく近い、いやちょっとちがう節もある。想い出そうとしているうちに、ふと「自由からの逃走」ということばが過った。検索してみるとファシズムの心理学的起源を明らかにしたとされるエーリッヒ・フロムの名がある。名前は著名だが読んではいなかった。語録を探ってみる。

「個人的自我を絶滅させ、耐え難い孤独感に打ち勝とうとする試みは、マゾヒズム的努力の一面に過ぎない。もう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、いっそう力強い全体の部分となり、それに没入し、参加しようとする試みである。」(『自由からの逃走』)

ヤマギシはたしかにナチズムではない。発端も、背景も、構造も異なる。しかしある局面で、いわば全身的にかかわってきた私という個の内面で、なんと近似的なのだろうと思わせる。かのアウシュビッツですら精神的自由があったことは『夜と霧』等によって知られた事実である。しかし<心物豊満>といわれる社会のただ中で、逆の心象が見出されるのである。これは辛い。しかし残念ながら、この反転は私のなかでもう何度もくり返されてきた。したがって私はここで舞い上がってはおれないし、そういうふうに見えてくる場の冷静な解析が不可避である。

「孤独感に打ち勝とう」「マゾヒズム的努力」といってもどうもピタリではない。しかし私がのちに思い返された「自発的自己抑制」とは、マイ自我を抑え込もうとしたマゾヒズム的な努力以外の何かだろうか。それが当時そう見えなかったとすれば、それを「自発的自由の実践」とみなす自己粉飾(メッキ化)が成功していたからだと思う。そしてその鼓舞要素となったのは、「力強い全体の部分となり、それに没入」するという日々だったはずである。

この背景にあるのは、吉田さんご指摘のようにムラの気風とそこでの<調正>指導部門の方向付けの大きさだった。私がそこに見たのは、はじめはそれほど気づかなかった組織の上下感覚の拡大だった。いわゆる特講以来、研鑽会での通例の感覚は、自分を放ち晒し他のそれを受け入れる「一列横」の同志の対等・平等の感覚だった。しかし起こったことは、研鑽会参加者のABの区分け、<見守られているから、監視されているへ>という上下感覚、メンバー間の自他隔離等々、きわめてドラスチックなものでそんな曖昧なものではなかった。

しかしなぜそれを受け入れてきたのか? 私は機会があるたびにそれらの疑問を記述してきたが、どうも一般論で自分の置かれた場の制約を越えてはいなかったと思う。したがってフロムのいうマゾヒズムについては充分思い当たるが、その動機として「孤独感に打ち勝とう」とする動機は生まれなかったと推測する。それなりに身内的な仲間はいたから。しかしそういうシビアーな孤独体験のあるメンバーもいたはずだと思う。そのことも考え、もっと厳密に問い直してみると、私にも「上から認められたい」という欲求はあった。それこそ実はわが孤独感の発条だったのではないかと気づく。

これらの現実経過は、「私意尊重公意行」の理念(理想)から照らし出してみると、どんなことになってくるのか。<私意抑圧、上意行>になっていなかったのであろうか。しかもその欲求や感情のみではない「私意」を見つめ直す試みは、放棄されることで容易に消滅していくのではないだろうか。そういうことへのこだわりは、しばしば我執だとみなされる集団では特にそうなりやすい。
そして私意尊重公意行」の世界はどうしても全体主義的イメージは感じにくいが、あの集団からはどうもその匂いがしてくる。自動解任がほとんど機能しなくなっていたからばかりではなさそうだ。

2017/6/16




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(47)問い直す⑥ なぜ自分を偽るのか?


「イズム、イデオロギーなるもの」への問いかけは私にとってかなり根が深い。今回はイズム体系全体への受容のこともあるが、より身近な日常的なジッケンチの「イムズの言葉」の受容、吸収の過程について取り上げる。それも吉田さんの以下の記述に出会ったからである。

 〈前に私は、「自分が自分であろうとするよりも、自分とは違う何者かになろうとしていた」と書いた。自分が自分であるよりない存在なのに、なぜ自分以外の何者かになろうとしていたのか。
自分は自分が卑小な存在であることを知りながら、それを素直に認めたくなかったのだ。本来の自分ではない存在であるかのように自分を示そうとして、自他を偽るのである。しかし他は偽れないので、結局は自分を偽り通すことになる。
 教養主義や向上志向などもその表れだ。そして参画してからは、例えば「あるべき姿があるはずです」というテーマの「あるべき姿」に自分を見せかけようとする。テーマに向き合いとりくむのではなく、見せかけの方に力を入れるのだからバカな話だ。しかし、これは私だけのことではなく、多くの村人にも見られた傾向である。(中略)
 人間は今ある自分の姿をそのまま認め、そこから出発する以外にない。自分を隠す、自分を飾るということは、他の評価によって自分を位置づけようとする、風まかせ、波まかせの実に不安定な生き方に他ならない。〉(30p)

 この文章はどうも表現は易しく解りやすいが、考えだすとよくわからないところがある。しかしどうも見過ごすわけにはいかない肝心なことに触れているような気がする。

「自分が自分であるよりない存在なのに、なぜ自分以外の何者かになろうとしていたのか」という問いである。少々漠然としているが、思い当らないこともない。
 「自分は自分が卑小な存在であることを知りながら、それを素直に認めたくなかったのだ」とは少々ドキリとする。自分のことも含めてお書きであれば、よくもこうはっきり書かれたものだ。言われるまでもなくよくあることである。おそらく無意識の習性にまでなっているはずだ。韜晦とか自己欺瞞とか。

 <な―にちっぽけな人間ですよ>と卑下、謙遜しながら、逆にそのことで自分をもっとよく見られたいとねがっているのだから厄介なことだ。それだけではないが、そこから「偽り」が始まるというのである。「自他を偽る」ということが。<いやそれは飛びすぎだよ、人間の日常的な習性だよ>とも言いたいが、論理的には人間の「偽り」の発生源と見なされても致し方ないとも思う。

 この指摘がコワいのは、「しかし他は偽れないので、結局は自分を偽り通すことになる」というところまで届いていることである。「自分のことを自分が一番知っている」はずなのに、自己欺瞞の部分が自己イメージのかなりの部分を占めることになって、そのまま自分を認知してしまっていることもないとはいえない。

 どうも大それた話になってくるのだが、それにふさわしくまず事例も「教養主義や向上志向」のことになる。ところが例えば教養主義や向上志向」のどこが問題なのか? <教養主義>はたしかにいかがわしいと感じることもあるが、私には向上志向がそうとは考えにくい。ただそれも度を過ぎると問題が多いと思う。

 しかしこのことをいったん<ことばの外部注入>という観点で捉え直してみると、別の巨大な問題群が登場する。いわゆるイデオロギーの受容の日々の主たる営みは、まさにその「教養主義や向上志向など」と密接しているのである。その淵源は私の場合少年時代から始まるもので、以前に吉田さんが自分の少年時代の回顧から「いつも自分以外の何者かになろうとしてきた」と述べられている(19p)ところは私にも大いに思い当たる。

 私は少年時から抱え持ってきた鬱屈した意識から<解放され救われた>と感じたのは入学した大学での学生運動によってだった。それからマルキシズムが私のバイブルになった。その内実は運動もあったが、学習会、読書などのいわば<外部注入>の部分が大きなウエイトを占めた。偉大な世界思想に触れるという感激とともに。

 それは結果的に<疑似救済>でしかなかったと総括できたが、そのイデオロギー性から離脱できたわけではない。その後より<土着的庶民的イデオロギー>としてのヤマギシに<幻惑>してしまった、というのが私の参画の経緯であった。その問題意識は前々回の論考「問い直す④」の中でも書いたが要点をくり返す。

 〈「大事なのは他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」(村上春樹)/“私の思想”とはどうもその小さなことに関わりがあるようだ/でもこれまで「他人の頭で考えられた」ことがいっぱい詰まっていて/それ以外のことはぼんやりしている〉(「今浦島抄」)

 ある意味で悔しいが、私はマルクシズムからの離脱過程と同じことをヤマギシの離脱の場合にも考え出していたのである。しかしヤマギシには「特講」というものがあったはずではないか。あそこで私は初めて自他融合の境地というものが、そうしようと努力しなくとも自己内に存在しうることを発見したという感触を得た。それも頭で考える疑似インテリの私などとちがって、自分に向き合って先に開けていった人々に触発されつつであった。

 参画して後、私が期待していた「特講的けんさん」の場はどこにもなかった。研鑽学校や生活法などの研鑽会はほとんど<注入IN>の場だった。特講のように自分に向き合いながら「出し合い、探り合い、気づき合っていく世界」(いわば表出OUT)ではなかった。

 ところで吉田さんが次に取り上げているのは、参画してからの例えば「あるべき姿があるはずです」のテーマのことである。私はこのテーマについて最初は真理・真実を直接言わないある謙虚さを感じたが、次第にその<思わせぶり的な理念信仰>の感触に嫌気がさしてきた覚えがある。それも「テーマに向き合いとりくむのではなく、見せかけの方に力を入れるのだから」というのは重々思い当たる。

 そして締めくくりとして吉田さんは次のように提示される。「人間は今ある自分の姿をそのまま認め、そこから出発する以外にない」と。このことばは重い。しかもよく解っているようで解らない。
〈今ある自分の姿をそのまま認め〉の「今ある自分の姿」とは何か?
さらに「自分が自分であろうとする」とは何か?

 はっきりしてくるのは、それについて私はしっかり考えつめたことがないということである。参画時、あんなにも「われ、ひととともに」の「われ」、「我当然執抹殺」の「我」に着目しながら。先回紹介した吉田さん自身の記述の中の、「それにもかかわらず、みんな自分は自分だとわかったつもりになっている」が念頭に浮かぶ。

 イズムの言葉を吸収しひたすらそれに合わせていく生活。そのように強いさせてきたジッケンチの組織構造もなかったとは言わないが、吉田さんはそれによって自ら埋没し隠していった<個の主体性>の貧弱を俎上に置かれていると思う。その「われ」を何とかして回復すること、それは「みんな」や「だれか」の世界ではない。 

 「自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。」(「百万羽子供研鑽会」より)

 子どもにすら解りそうな表現が、なんと困難なことだろう。どこかでそうしてしまった<偽り>が累積してきたというしかない。(続く)

2017/6/6




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(46)問い直す イズム、イデオロギーへの嫌悪と見直し
 

<自己存在観>(自分を知る)に関わるテーマBと<真理(真実)観>(ヤマギシ批判=自己批判)テーマAの統合などという少々大仰なテーマを打ち出したところで、また吉田光男さんの文章に舞い戻る。吉田さんの場合Aが主題であって私のような区分けは特にないようだが、Bの表現も随所に顔を出す。もう<統合>などと言わなくとも、A主題のなかに自在に組み込まれているようだ。

「わくらばの記」終りの方で息子さん一家の訪問を受け、お孫さんから「鋭い質問」を受ける場面が印象的だ。

〈――じゃあ、幸せって何か。
「その質問に全部答えることは難しいが、最近考えたことを言うと、自分を知るということが大事な一歩かと思っている。宇宙の話を聞くと、宇宙空間に存在する物質やエネルギーはほとんど未知なるものと言われている。その90パーセント以上は、不明の物質やエネルギーで、それを暗黒物質とかダークエネルギーと言っている。同じように、人間の心の宇宙もわかっていない。つまり、人は自分が何者であるのかもわからぬうちに、一生を終えることになる。それにもかかわらず、みんな自分は自分だとわかったつもりになっている。じゃあ何を以って自分だと思っているかというと、自分以外の何か――例えば財産とか名誉とか地位とか知識とか――そういうものが自分だと思っているのではないか。しかしそうした自分以外のもので自分を幸せにはできない。それでは、おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれど、わかっていないことが分かったとは言うことができる。だから自分の心の中を旅する努力をしているが、それが楽しい。そこに生きがいを感じている」
-そんな話をして、たぶんよくはわからなかったと思うが、真面目に答えたことの何かは伝わったかもしれない。〉(251p

私は感嘆した。若い頃のイメージでいえば「ここに人生の教師がいる!」という感動に近い。お孫さんとはいえ一人の真摯な若者に向き合ったときの老学究の心の緊張がよく伝わってくる、臨場感あふれる表現だ。しかも宇宙科学的真理からの導入のように、私には到底できないようなスケールの大きもある。そのベースにある吉田さん自身の心の喜びや生き甲斐を通して、私が縷々述べながら果たしえなかった<自己存在観>のリアリテイーを見事に表現していただいたような気がする。

直ちに思い出されるのは、記憶の細部は不鮮明だが高等部「学究」があった頃のことである。新島淳良さんがたしかマルクスの「剰余価値」や「疎外された労働」について語り、それに興味津々食いついてきた学園生の存在だった。そしてその「学究」が停止されたとき、本庁にその疑義を問いかけに行ったメンバーがいたことを知ったのも、ごく最近のことだった。当時<実学一本で行く>というその世界知というものに無頓着かつそのどうしようもない発想の貧しさにおそらく愕然としたであろうが、私にそれ以上何かしたという記憶はない。

ともかくそのことを踏まえながら、吉田さんのA主題<真理・真実>に立ち戻る。吉田さんのいろんな切り口が覗かれるが、たとえば私には最も解りやすかったのは、鈴鹿の資料『asone 一つの社会』への疑問である。

〈納得できるところ、同調できるところはたくさんある。しかし疑問は残る。それも根本的な疑問である。疑問というのは、「もともと」とか、「本来」という言葉で言い表される中身だ。「人間本来の姿=幸福」・・・「もともと安心安定」「無いのが本当」 (中略) 私は今「本来」も「もともと」も棚上げして、自分のあるがままの姿を見つめ直すことに重点を置いている。「真理とされるものから出発する思想は、一種の原理主義になりうる。〉(135136p)

このような発想は前述した私自身の2000年当時の<真理観>にも符合し、私はそこから「わが全心身で嗅覚でき、かつ実感できる真実」に依拠するようになってきた。しかし私はそれを全肯定しているわけでなく、それも容易に一種の<実感信仰>になりやすい。改めて吉田さんの論述の厳密な手つきに感銘する。

しかしそれよりも何よりも私の最大の関心は、いわゆる「イズム」という表現で括られる世界のことである。私はそこをまず保留状態というか、この<善にも悪にも変貌する得体の知れない>思想へのある種の嫌悪感からそれをすっ飛ばして、「いったいこの自分とは何なんだ」という問いに直接向かった。こういう「正体不明のイズムなるものに取りつかれてしまった自分」という形容をつけながら。

私も吉田さんと同様、マルキシズム(私たちのような年齢であれば誰しも心当りがあるであろう)というイデオロギーに執着した前歴がある。私はそれに懲りてとことん愛想尽かしをしてきた分野だったはずである。にもかかわらず内容はちがえ「○○イズム」に再帰してしまった。しかも私とちがって吉田さんはなおイズムへの希望を失っていない。

「思想が思想として成立するには、それが世界性を持ち得るかどうかにかかっている。世界性とは、普遍性である。一つの考え方、一つの論理が、何ものかを代表するイデオロギー性を持ちうるとしても、ある地域、あるグループ、ある時代を超えて通用する普遍性を持ちえないとすればそれは思想にはなりえない。」(125p

吉田さんはそのように問いかけながら、かつ山岸さん自身の、人々の誤解、キメつけによる宗教・信仰・盲信形態への恐れを紹介される。その上で、さらに自らの従来の信じキメつけへの反省にもふれながら、以下のようにまとめられる。

「ヤマギシズムが思想としての世界性を持ち得るかどうかは、決めつけのない前進無固定の、研鑽形態の思想として、私たちがヤマギシズムを再生しつづけることができるかどうかにかかっている。」(127p)

何という苦渋に満ちた語りであろうか。私には、申し訳ないが言葉つきは優しくともこれは<鬼のような頑強な執念>にも聞こえる。その表れの現実をどこにも確認しようのないただ中で、(他のどこかにあるのかもしれないが)ただ存在しうるのは吉田さん自身のその語りのことば(魂)とその可能性だけである。私のなかでもすでにそのことばない。以下は私の<ぶっちゃけ>開き直りである。

〈たぶん私は「転向」したのである。(中略)そもそも理想、大義、真目的なるものへの参画と称し、人生の総てを最初から(あるいは中途からでも)自縛・他縛するようなことは、どこか虚偽があると思うようになった。その流れは必然的に子どもの未来をも束縛するのだ。そういう簡単な真実を知るのに、私には二度の挫折が必要だった。一度目は学生運動、二度目はヤマギシ。よっぽど大バカでも三度目はない。普通人にとっては、そこまでできるほど人生は長くはない。〉(「ジッケンチとは何だったのかⅡ」)

急いで(私の中では長い時間がかかっている)註釈を入れれば、この「転向」とはあの時期ではごっちゃだった<ジッケンチ>イズムからであって、必ずしもヤマギシズムからではないと思い返している。しかもこのようないわば<私的な>ことは、公開せずとも私自身が黙って巷に消えていくだけで充分なことであろう。私がここでいまだ山岸さんの語りやイズムについては一知半解でしかないが、あえて言上げしたいのはやはり吉田さんが死守(かつ死後守)もされてきた「真なるヤマギシズム」であり、なかんずくその「けんさん」の真実の可能性である。何も一同会して語り合うことばかりが「けんさん」ではない。

私のいわばこういう<屈折した>志向には、なにがしかの偶然が伴ってきたと感じる。あの<ジッケンチからの逃亡>は当時は強いられた偶然だったが、その前にはたしか幼年部拡大推進マシーンと化した自分の疲労感と徒労感がびっしりこびり付いていたはずである。おそらくムラ離脱後の無我夢中の精神的営為がそのことを<わが必然>と化してきたと得心する。前にも触れたようにそのことに後悔はないが、吉田さんの心の営みにはどこか深い敬意と魅かれるものを覚える。その吉田さんも長い間特講や研鑽学校の係をやってこられたいわば<偶然>が、現在の自(他)究明へと熟成されてきたのかもしれないという必然を感じてしまう。ふと浮かんできたのが、ずっと死ぬまでアテネの広場を離れることなく問いかけ続けてきたソクラテスのことだった。

 おそらく人は死してのち心近くにあった人に、またこれまで以上の何かを呼び覚ます。このお孫さんへの語りを読み返してみると、「おじいちゃんは自分がわかっているかと聞かれると、とうていわかっているとは言えないけれど、わかっていないことが分かったとは言うことができる」とある。これこそ「無知の知」ということなのではないか。あらためて「けんさん」を人類の普遍的古典智からも捉え直すことができそうな気がしてくる。(続く)

2017/5/30



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(45)問い直す④ 「人生」への眺望を組み込んで

 先回は、わが「実感できる真実」からの典型的な発想事例を紹介した。ただ私のメインテーマは「問い直し」である。しかしその問い直しに入る前に、もう少しその対象の全貌を明らかにしておく必要がある。それはやはり<真理観>と対置してきた<自己存在観>のことになる。その特徴は、これまでの私にとって「かなり開き直ったともいえる方向」への転身として一応釘を刺しておいた。

 それはもちろん「実感できる真実」の流れであるが、「自分とはいったい何者なのか?」という問いに関わる。ただもちろん一挙にそうなったわけではない。その出発点は私の場合、ジッケンチを離れたからこそ生まれた認識だった。ムラを離れていなかったら、そういう問いは生まれなかったであろう。その発端は「村―町」運動で寄り合ったGメンバーとの交流だった。ここで私は初めてこの間メンバーが抱えていた様々な「本音」に出会った。G内でのこれまでの習性や警戒感が外れたせいもある。私はこれこそ(かつて夢には見たが出会ったことのない)「幸福研鑽会」ではないかと実感していた。...

 ここでその内容に触れるゆとりはないが、私にはそこはその後の思索や究明の坩堝であり源泉のような場になっていた。その活動は2年近くで挫折したが、そこから以降私のなかで胚胎してきた問題意識は<自分のいた場への同調と違和感><自分を知りたいという欲求><「私の思想」の模索>ということになるだろう。それに当たる表現をいくつか紹介しておきたい。やはり詩形式が簡明だろう。

 〈わたしはどこに居たのか/(中略)おそらくそこが息苦しく空気が薄ければ/空気がまともにある場を 探すだろう/
たまたまそこを降りてみると次第に楽になる/そこまで来て初めて私の居た山の/酷薄な高さを知るのだ/
「きみがイギリスしか知らないとしたら イギリスを知らない」(『今浦島抄』―距離)

 〈社会を変えようとするなら自分が変わること/しかし今は自分を変えようとは全然思わない/
その前にもっと自分を知りたいのだ/自分を知るとは/たぶん自分の変わらないところを/明らかにすること/(中略)
精神といい自我という/それらはなにゆえに/かくも執拗に問いかけてくるのか?/お前はなにもので/お前の本当にやりたいことはなにか、と/
たとえ生活や生命が十二分に満たされても/満たされずうごめくそれら!〉(同上―自分を知りたい)

 〈――「大事なのは他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」(村上春樹)/
“私の思想”とはどうもその小さなことに関わりがあるようだ/でもこれまで「他人の頭で考えられた」ことがいっぱい詰まっていて/それ以外のことはぼんやりしている/そのなにかが蘇るために/貧しく不安多くともあえて別居し、いまだなにもない小さな部屋の表札に/番正寛と記す〉(同上―私の思想)

 このような表現は私の数編の手記的小説とともに2003~5年頃のマンション住込み管理員の暮らしの中で<噴出>しているが、これは私の人生にとってもただならないことだった。これまでも人生の岐路に立って考え抜いてみたことは幾度かあったが、文章表現として一貫できたのは初めてのことだった。

 ただそれも前述のようにムラを「離れた」というより、そこから<逃亡した>人間だったという自覚が大きかったと思う。やはりそこが「息苦しく空気が薄かった」という危機感が先行し、それはどうしても「強いられた」という感覚として残る。このことはたびたび思い返すが、吉田さんがジッケンチに留まりながらも、なぜあのような広闊な思索と究明が可能になってきたのか、に想いを馳せざるをえない。そこではそれこそ直接的な様々な不条理や違和感に包囲されていたであろうに。

 私はそこから直ちにジッケンチ批判の方向に進んだわけではない。ふり返ってみればその方向は、私が2008,9年の「ジッケンチとは何だったのか」論考以来のことである。ただそれでも最初のHP(2012年)のタイトルが、以前の感覚を引きずった「挫折体験と自己哲学」だった。その後の物を書いてきた動機は、ヤマギシ批判を織り交ぜながら罪責感、自己批判、自己決済、清算等々の、誰しもちょっと身を引きたくなるような、おどろおどろしい内容だったと思う。

 その間、吉田光男さんから個別研についての「元学園生の手記を読んで」(2013年)の重厚かつ示唆的な論考を頂いた。特にその中で紹介されていた山岸語録に触れ、私はジッケンチと山岸さんを一応分離して考えるようになってきた。そもそも青本とジッケンチとは内容を異にする部分が多々あり、またそれ以来吉田さんやYさんのような『山岸巳代蔵全集編集』に関わってきた人の知見に触れる機会が増えてきたからでもある。

 さらに昨年初頭世に出たかやさんコミックへの衝撃は大きく、HPタイトルを「反転する理想」に変更した。この間の私の認識の基調は、やはりヤマギシは「正しくなかった」、同時にそれとほぼ一体だった私は「正しくなかった」という認識、いいかえればより<真理観>(真実観といってもよい)に近くなってきたと思う。それもわが「実感できる真実」からであった。そのことは厳密にいえば吉田さんも同様だろうが、やはり彼の広範な知見と究明による真実表現ということでは学ぶべきところが大きい。それは吉田さんが一貫して問い続けてこられた内容であり、その「問い直し」についての吉田さんの深刻な反省を、困難ではあるが可能な限り受け継ぎたいと考えている。

 経過説明に時間を取って恐縮だが、ようやっとここで私自身が「問い直し」たいと考えてきた主題に入る。それは私がこの間ずっと着目しながらも、なかなか胸にすっと落ちるような了解には至らないテーマだった。すなわち私のなかで割り切れないのは、この課題はあの2003~5年ごろの「自分とはいったい何者なのか」という究明とはどのようにかかわってくるのかという問いである。そのわが<自己存在観>に関わるテーマBとヤマギシ批判=自己批判テーマAとはたしかに一線を画しているようでもあるが、そこにどうしても深い連関を意識せざるをえない。そしてその方法としてAは「究明」
(情報、学理の吸収IN)といってもいいが、Bはやはり「表現」(自己表出OUT)になると考える。

 そこで大雑把な連関感覚をあげてみると、ムラ離脱当初の<自分のいた場への同調と違和感>とか<「私の思想」の模索>の中では、もうすでにAの意識は自明のことだった。またそのAの究明のただ中でもBの「表現が慰謝と救済になりうる」という感覚がついて回っていた。そこにはもちろん「人生」のにおいが漂っている。つまり巨視的に云えばヤマギシも私の人生の中の一コマであるし、逆にいえばヤマギシ的(ヤマギシに限らないが)社会構想の中で個々の人生は不可欠な要素でもある。

 このような機微を含めた問題群が私の「問い直し」の主題になる。大胆とも粗雑ともいえるかもしれないが、私が企てているのはこのAとBとの統合である。これまで幾度か取り上げているが、成功したとはいえない。(続く)


                                         2017/5/25




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44問い直す③ 真理って?、だが真実なら


私自身の2000年当時の<真理観>については、その時期からかなり経った『ジッケンチとは何だったのかⅡ部』(2009、左上資料編参照)において次のように記述している。

〈たしかにもともと人間は、どこまでも理想・真理を求め、理念自体に化すことができる。私はそこに人間の偉大さがあるとどこかで考えてきた。その結果がヤマギシ参画とそこでの取り組みだった。ところがその真理とはどうして知りうるのか?
 それは普遍的であり個々の主観的感覚を超えたものだから、感覚からは知ることは困難である。またそれは俗人ではない真人こそ知りうる、と。ならば真人を目指すべきだろうが、私には「真理」なるものは「特別人間」の所管に見えてきた。ならばまたその特別人から学び、あるいは信仰すべきだろうが、その気も起らない。〉(8、「特別人間」ではなく普通人として)

これは当時の私の精一杯の認識であった。念のため吉田さん自身の<真理観>を確認しておきたい。彼の真理観についての記述は多いが、私の上の文脈に近い部分に限ってあげてみると

〈かつて私たちはよく「真理」を口にし、「真理にそって」などと言っていたが、自分たちの行為が真理にそっているかどうか、誰が検証し誰が保障するのか、みんな自分たちがそう思い込んでいたにすぎなかったのではないか。〉(89p

〈中島(註、岳氏)氏によれば、ガンジーも、鈴木大拙も、西田幾多郎もこの多一論(註、いわば多神教)で、「一なるもの」は言語化できないとしている。つまり、それが真理である以上、人間の相対的な言語によっては表現できず、人間は真理の影しかとらえられないという。〉(91p)

真理についてのこのような認識から、私はいわば「かなり開き直ったともいえる方向に転身して」いった。以下はその認識の発端となった文章である。

〈だから与えられ学ぶべき「真理」は私には縁がない世界だと思うことにした。私が手掛かりにできるのは、今のところわが全心身で嗅覚でき、かつ実感できる真実しかない。聖人君子なる「特別人間」(山岸氏はその言葉を否定的に使ったが、私は彼こそ「特別人間」であると断ずる)になりたい人は勝手にやったらいいだけである。普通の庶民感覚からすればそれは<ヘンな人>である。そしてこの思いは私の二十年のジッケンチ体験が齎す慙愧の思いであり、自分のなかでわずかに残しうる感覚的な智恵に属すると思っている。
 もちろん私は歴史上理念に準じた偉大なる人の存在を否定できるとは思わない。ただ彼らの偉大さはその思想・事業・実績にも拠るが、あまり表面化されないその<「特別人間」としての矛盾>を極限まで生き貫いたことにある、と考える。山岸巳代蔵も然り。〉(8、「特別人間」ではなく普通人として)


--私が「山岸巳代蔵」氏への、このような批判的言辞を公開文書で吐露したのは、これが最初で最後である。「特別人間」とはいうまでもなく青本の「幸福研鑽会」の中で、「特別人間や、神や、仏は仲間入りして居ませんから、或る人を盲信し、屈従迎合しない事で・・・・・・」(「5.命令者はいない」)とある。今わが拙文を読み返してみると、山岸さんに「そういうお前こそ特別人間じゃないか」と断定しているのである。こっちが一方的に彼を<特別人間>化しておいてのこのような指摘は、今から考えれば無礼、無分別極まりない言辞かもしれないが、この部分を撤回したり隠匿する気はない。その時の私は事実そのように在ったというしかない。

--逆に言えば、それまでずっと彼を「特別な人」として<自発的に>「盲信し、屈従迎合し」てきた部分もなかったとは言わない。もちろんそこに特講も大きく介在する。その流れで後継幹部諸氏への迎合も続いたが、逆にいえばそういう幹部諸氏への反発が山岸氏への幻滅へと突き進んだ。

その後、私が依拠してきたのは、上述のように「わが全心身で嗅覚でき、かつ実感できる真実」しかなかった。そこで私は時には「ひととともに」あろうとする心情(真情といってもいい)に出会うことができたが、それはしばしば自己保存の危機に基づく打算との葛藤のさなかであった。

〈ただなにかに触れたような気がする/やさしさの磁場というのか/
それはたぶん悲しみと不幸の場に虹のように架かり/触れるとやさしさが吹き出す/
ふだん 疲れ固まっているぼくにでも/
 やさしい人に育たなくとも/やさしい人になろうと取組まなくとも/やさしい人になれと強持てに 迫らなくと/その場に触れたらだれにでも吹きだすやさしさ〉
                                  (詩集『今浦島抄』左上資料編参照)

〈そのような自己保存のための葛藤が乏しい環境で実践される理念は、一見華々しいがどこか空疎・上げ底で<理念のための理念>と化していった。語彙不足の貧しいイズム用語で研鑽すればするほど、実感を欠いた思い込みの固定になっていなかったろうか。参画者が街に出てみたくなる動機の一つは、私がそうであったようにまさに<実感を求めての旅>にあった。〉(同上8、「特別人間」ではなく普通人として)(続く)

2017319





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(43) 問い直す② 2000年頃の私(たち)から


先回<真理観>と<自己存在観>という二つの観点について書いた。これは吉田さん日録『わくらばの記』に対する私の最初のとっかかりとしての印象表現ということになろうか。こういう自前コトバやテーマは、私のような不勉強、ボキャブラリー不足の人間が、止むを得ず取らざるをえない手段であることを容赦されたい。まったく足元にすら及ばないで恐縮だが、私の見るところ山岸さんは<造語の天才>だった。

これは同時に吉田さんと私との2000年ごろの「実顕地」への<残留と離脱>という相反する事実選択の背後にある考え方を指す。私自身がジッケンチに残ることを断念した時点で、吉田光男さんがそのいわば理想形骸化した「実顕地」に留まること選んだという選択のことである。そこには人間個々の人生における偶然と必然性がない交ぜ合った結果としての優先感覚が作用するだろう。そのことに私の後悔はないと思う。しかし吉田さんのその後の取り組みは、私もその場に留まるべきだったかもしれないという可能性を暗示させる。そこにいわば吉田さんの理想に向けての、ある深い人間的力量を感じさせる。その資質は決して偶然ではないと思う。

そのプロセスを吉田さんは次のように記述する。

〈私にとって一番深く悩んだのは、2000年以降の10年である。これまで村の中心で活躍していた何人かの人たちが鈴鹿に居を移し、新しい運動を始めた。それに伴って多くの人たちが鈴鹿に移動した。私にも講習に参加しないかと何人かから声がかかった。しかし十分納得しないうちに、「ここがダメならアッチがあるさ」と簡単に移り変わることなどできない。村に問題があるとしたら、それはどこにあるのか、そしてそれは何なのかを見極めたいと思った。観念の形を変えてみたところで、中身は変わることはないのだ。〉(64p)

このイメージは当時「村から町へ」運動で大阪に在住し、その後2度ほど訪れた私の鈴鹿での印象と一部符合する。吉田さんとは時期的にはずれているだろうが、以下は初期の頃の私の印象になる。

〈しかし須山はそこでも以前通りの古式蒼然たるテキストを使った研鑽会の雰囲気、昔のリーダーへの追従的態度や互いの依存・持たれ合いの体質を嗅ぎとると、もうダメだった。人々をアリの集団に変質させたJ指導部の一元的な権力集中から離脱した彼らは、ゼロに戻ったのではないのか?・・・・・・須山は多恵子と違ってそこへ飛び込む気にならず、そのことをさらにまだ整理し得ない過去へのこだわりによって正当化した。〉(番一荷『にわか老後』2005より)

その後の鈴鹿の動きに対して私は無関心ではないが、この違和感のようなものが解消されることはなかった。特にその運動の一見現代的で華々しい進展とは裏腹に、元ヤマギシの前歴を伏せたような印象がどこか問題を感じさせた。これだと「不都合な真実」を隠蔽してきたジッケンチと同じ轍を踏むことにならないのだろうか、という危惧が残る。

さらに上の吉田さんの文の直後に示された彼の認識の徹底さに深く共鳴する。

〈――今度こそは同じことはできない、と思ったのである。そして自分の考えてきたこと、信じてきたことが誤っていたとすれば、その誤りを見出すだけでなく、誤りを信じ込んだ自分自身がなぜそう信じ込んでいたのかをはっきりさせねばならないと思った。つまり考えという対象の誤りと同時に自分という考える主体の誤りをも、同時に見出すものでなければならない、と思ったのである。帽子をいくら脱ぎ代えても、頭の中身は変わらない。〉(同64p

この「自分という考える主体の誤り」という考え方に至る前に、吉田さんは『山岸巳代蔵全集』の編集に参加できたことが大きかったようである。山岸さんの原稿に何度の直面するうちに、「――自分が固定観念の虜になっていることに気づかされる。自分の考えは正しいと自信のある時は絶対に気づくことはできなかったことだ。人間、時に悩むことの重要性を意識させられた」(65p)とある。

ところが当時、私はこの吉田さんの正論(現在の私が考えられる)という方向にストレートに進まず、いわばかなり開き直ったともいえる方向に転身していったように思う。いわば理想・理念自体への懐疑、否定から、さらにそういうものに自己呪縛されてきた「自分とはいったい何者なのか?」という模索、いいかえれば<自己存在観>の究明の方向へと。それは私には絶対に避けられない究明ではあったが、のちの<真理観>の正否自体とその自己背景まで立ち戻るには時間がかかっている。(続く)

2017/05/16




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(42)「問い直す」ということ

 
吉田さん逝去の事態で、少々混乱したり取り乱したりしていることもあるかもしれない。私はどちらかというと感激性型の人間であり、それによって失敗することもままあった。それもあって、まず前回の吉田さん葬送の文章を見直してみる。かなり重大なことを口走っているかもしれない。

 たしかに私はいかにも昂揚した感覚で書いている。「彼のこの志と覚悟をどこまで引き継げるか」と。ふり返ってみてこんな誓い的な物言いはしたことがない。行き当たったのは、あの山岸さん墓前での「オールメンバーの誓い」(1993年)以来のことである。だから「なにかしら途轍もなく恥ずかしくなりそうなことを書いているような」という躊躇を覚えずにはおれなかったと思う。

 そこで書かれたことばの真意を確かめてみた。そこでは「――いや自分が求めつつあるのは、できるかどうかは別に、吉田さんのような問いかけの深さだと思います」とあった。誓約的には他に何も触れてはいない。なかんずく「何を問いかけるか」については。いいかえれば同じヤマギシについて、あるいはヤマギシの<しでかした>ことについて、なかんずくその渦中にあった自分のことについて、私はこれまで同様問いかけ続けるが、おそらく吉田さんと即、テーマは似ていても同じニュアンス、方法で問い返すことはほとんどできないし、しないだろうと思う。

 ところが、「この志と覚悟を」などという表現というものは、ひょっとしてかなり誤解を呼びそうな気がしないでもない。例えば私は、吉田光男さんの後継者になる気はさらさらないし、できないと思う。ただ私が「引き継ぐ」しかないと腹を決めた部分は、あの辺見庸の『1★9★3★7』での問いかけに触れた吉田光男さんの、自分自身への<愕然とした思い>だけ。ただそれは私にできるかどうかわからないし、そこに傲慢な自尊があるかもしれない。だからもっと正確にいえば、その吉田さんの<愕然とした思い>に触れ<さらに愕然とした>私の思いに忠実になろうとしたということになる。

 したがってそのメインテキストとして私は『わくらばの記』を挙げざるをえない。吉田さん逝去の、私にとっての直接の意味はそこにあると思う。しかも2000年以降、ヤマギシ内部にあった人の公開された心の記録として、これほど正直、真っ当な、かつレベルの高い記録は他に出会っていない(コミック本『カルト村に生まれました』も然り)。参照している『わくらばの記』新刊本はすでに付箋でいっぱいになった。知らなかったことは多い。知っていて同感するところ多々だが、気になるところもある。しかしその目的は吉田さんに問いかけるわけではない。それを機に自分への問いかけを、その中身と方法も含め「問い直す」ことから始めたい。

 これは気になるということではないが、その辺見庸の問いかけがあるページ以降、続いている文章はいわば<真理観>に属する。人間の正しさ願望、真理.真実の早計な捉え方とその固守、他への非難の夜郎自大性等々、どれも素晴らしい指摘だと思う。その必要性、意義は充分にある、しかし私には少しばかりしっくりこない。それは私がこれまで意図的というほどではないが、なんとなくすっとばしてきた苦手の分野だった。

 私がいわばホッとできた場面は、以下のゴッホについての記述になる。
 「彼は何枚も何枚も自画像を描いた。何のためか。――1枚も絵が売れない、しかし自分は描くこと以外に生きることはできない。そんな自分とは何なのか、描くこと以外に画家としての自分(レーゾンデートル)を確認できなかったのであろう」15

 これは前後の関係が不明なまま(私には)不意に現れた記述だった。これは、しかし日録というスタイルの欠陥というより自在さでしょう。病気、入院という生活部分の必要から出てくるものだと思う。おかげで暮らしの背景も読み取れ、文章も私の論考のように長ったらしくならない。

 それともうひとつは以下の記述だった。

「少年時代からの自分を振り返ると、自分が自分であろうとするよりも、いつも自分以外の何者かになろうとしてきたように思う」19p
 これも前後関係は不明で不意に出てくる。この内容は、私もある時期痛切に感じた思いだった。

 こういう部分は、私には<真理観>に対してあえて命名すれば<自己存在観>ということになろうか。いうまでもないが、これは吉田さんと私の2000年以降の軌跡のちがいからくると思う。吉田さんには<真理観>がメインでありながら、このような<自己存在観>も時々覗かせてもらえる。吉田さんの思考領域の広さというのか。おまけにそれを支える膨大な読書量がある。

 その間、私はろくに本なぞ読まないで小説的手記ばかり書いていた。本を読みだしたのは2008年以降総括論考を書きだした頃だった。したがって『わくらばの記』は私にはある種峻厳なテキストであるだけでなく、私の問題意識にじかに触れてくるとてもありがたい書でもある。

 ところで先ほどの「自分以外の何者かになろう」という記述のすぐ前に、以下の記述がある。
 「ヤマギシでいえば、1980年代以降の急拡、そして急速な縮小、そこにいったい何があったのか、なぜそうなったのか、そしてその時私たち一人ひとりは何を考え、どう行動したのか、繰り返し繰り返し考えてゆく必要がある。そこにしか未来を生かす教訓はないのだ」

 私がこれまでHP等で書き継いできたのはそれ以外のこともあるが、基本的にはこの思いと全く同感である。その「繰り返し」を自分への「問い直し」としてさらに続けていくつもりです。

2017/5/14






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41吉田光男さんの逝きて「逝かざるもの」

4月30日吉田光男さんが逝去されました。享年85歳。

 吉田光男さんとの最初の出会いは、『天真爛漫』(ヤマギシズム出版社1980)での彼の著述からでした。そこで巻頭に紹介されていたミヒャエル・エンデの『モモ』のことと、楽園村の記録が私にはとても斬新なものでした。それは当時の世界文学、思想の頂きから発想しながら、楽園村の意義に及ぶもので、そのスケールの大きさとそれによる普遍的なリアリティ― は、ヤマギシにもかなりの人物がいると知らされました。しかしそういう発想はその後のヤマギシからどんどん失われていったものです。

その後吉田さんとの接点はほとんどなかったのですが、私のジッケンチ離脱後、彼の元学園生の「個別研」体験手記に触れての論考で、さらに近時の『わくらばの記』の中で、私はふたたび彼と出会えた感触がありました。彼のスケールは依然として健在でした。ただ彼の思索の場がジッケンチであり続けたことが、私にとってなぜそれは可能なのか不思議でもあり、ある種の危惧と驚異にもなっていました。彼の逝去の報を受けて、私にもっとも鮮やかに想い浮かんだのはそういう場の選択の違いでした。

なぜならそれは私にはできなかったことです。そこは私には「金は要らないが、無理暴力のある」集団であるのみならず、「沿う・合わせる」の自縛的な自己拘束とそれによる思考停止の場でもありました。私がそういう「ジッケンチ」を離れるしかないと断念した地点で、吉田さんはそこに踏みとどまったのです。それはまた吉田さんの表現によれば「手垢のついた」言葉の世界であり、あらゆる理想反転の問題群に彼は決して盲目ではありえなかったはずです。事実『山岸巳代蔵全集』の編集にも関わった吉田さんは「何だこれは・・・山岸さんの言うことと実顕地でやってきたこととはかなり違うじゃないか」と感じられたのです。

その間の軌跡を、吉田さんは「2000年からの10年」と総称しています。私には彼がその間「実顕地」というものの真髄を模索しながら「けんさん」の考え方を生き抜いてきた人として浮かび上がってきます。ただそれはいわゆる既成の研鑽会のことでなく、「ことば」の真実を確かめ確かめ、「自分の内部に掘り下げた深さだけ、外に向かって届く距離が長くなる」(論考「手垢の付いた言葉」)という発想に基づくものでした。それこそが、吉田さんがそこに在ったことの唯一の「希望」であり、自己「けんさん」であり、「実顕」であったと思えてなりません。

ただその志の深さと困難さは、とうてい私の想定に及ぶところではなかったようです。『わくらばの記』の始めの部分で、吉田さんは辺見庸の『1★9★3★7』に触れ、

「これを読むと、自分が書いている〈学園問題〉についての手記は、チンケで底が浅く、とうてい書き続けることができなくなった。もっと自分に向き合わなければ、書く資格も意味もない。辺見庸は、『なぜ』と問うことを続けている。物事の重要性は、説明や解明にあるのではなく、問うことであり、問いつづけることの中に存在する。説明、解明、解釈、理論づけ、・・・・・・それらはそれ以上の究明を放棄することの弁明に過ぎない。」

この記述は私には衝撃でした。こうまで書かれている吉田さんには、ある覚悟のようなものが滲みだしています。私はこの部分を読んで、これはキツイ、自分には無理・・・と躊躇しながら、いつしかそこから離れていたようです。これまでどこからもジッケンチや学園についての問いかけが表立って見えない状況では、そのレベルよりはそのこと自体への言及、解明、理論づけに意味があると考えてきたのです。

私はジッケンチから離れ、まず自分の感覚とアタマで考え抜いてみること、そしてそれを書き表してみること、にずっとこだわってきました。「ジッケンチとは何だったのか?」「自分とはこの世の中で何ものなのか?」と。それは自分への向き合いとしてキツイことではありましたが、他方救いや歓びもありました。そしてそれはジッケンチの外だから可能になった営みだとずっと考えてきたのです。しかし吉田さんはまさにその誰しもそこに流され同調していくしかない環境のただ中で、ずっと独自の思索を絶やすことはありませんでした。

今私は吉田さんの逝去に直面し、これまで通りの自分でいいのかどうか、はたと立ち止まっています。必要なのは、というより求められているのは、いや自分が求めつつあるのは、できるかどうかは別に、吉田さんのような問いかけの深さだと思います。いいかえればその場は、(吉田さんだからいえるのかもしれませんが)どこでもよかったのです。しかもこの思いは、すでに逝去された吉田さんのおそらく「逝去しようのない」、これからもますますその輝きを増すであろう志しを、点火していただいたような感覚でもあるのです。

なにかしら途轍もなく恥ずかしくなりそうなことを書いているような気もします。「志し」なるものは私には、かつて嫌悪に襲われ放棄したと思ってきた<理想>や<理念>に付き物の言葉のようでしたから。でも私はすでに吉田さんのおかげで「百万羽子供研鑽会」のことばが蘇っています(「元学園生の手記を読んで」吉田2013/10より)。

「研鑽会は、先生や大人の人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます。」

これは山岸さんが書いたと言われている子ども向けの研鑽資料です。しかも大人でもこのように実践されたことはほとんどないように記憶します。しかしこれこそ「けんさん」というものの原型、本領であり、その前提としての「自己けんさん」は不可欠だと考えます。その一方法として書くという営みは欠かせないものであり、なかんずく吉田さんの思索の記述は「後世への最大遺物」だと感じられてくるのです。

吉田さんの冥福を祈ることは、私には彼のこの志と覚悟をどこまで引き継げるかにかかっていると考えるものです。

2017年「子どもの日」に)






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(40「分身」について考える


〈註〉「ヴェトナムの村落でカービン銃を片手に/少年の死体を蹴起こして笑っている韓国兵の写真が雑誌に載っている/あっと その男の貌が/おれと酷似しているのに驚いて/思わず首を締めつける」  (「獏を食う男」1957年初出 梁石日詩集『夢魔の彼方』より)


 戦場で「少年の屍体を蹴起こして笑っている」兵士が詩人の「分身」なら...
ガクエンで少年にどえらい暴行を加えたメンバーもおまえの「分身」ではないか。
またそのことにずっと沈黙し続けている指導部リーダーもまたおまえの「分身」ではないか。

 そういう声が耳に届いてきた。おそらく論理的帰結はそうであろう。
-しかしこのことを承認するのは重く、かつ辛い。そんなふうにずっと考えたことはなかった。
かれらがやってきたことは私にはできないことだったから。だからこそ「金は要らないが、無理暴力のある」村を離れた。

 それをいまさら、どういうしがらみで、どういう隘路で、どういう未来予測で、そんなことができるのだろう。詩人は兵士に自分の「分身」を発見したとき、思わず自分の首を締めつけた。それぐらいのあまりないことである――しかし詩人はできたではないか。

 私はその「分身」という見方自体にどこか忌避感を抱く。それはやはり嫌悪感につながっている。今では薄れ、なくなってきた、あるいは忘れていたと思っていたそれが、また蘇る。

 もしかれらがわが「分身」かもしれないと考えられるとしたら――
 ひとつは過去において、私はかれらに加担しかれらと「同身(心)」であったことである(当時係であれば体罰もやったかもしれないと思う)。
 さらにひとつはそのことを自己批判し払拭し続けてきた思う現在、かれらとは「異身(心)」であると決めてきたが、ほんとうにそうなのかという問いにかかわる。

 その嫌悪感は自己嫌悪とずっしりつながっている。ふり返ってみれば、この自己嫌悪は多くの人々に迷惑をかけてきたという加害意識からくる。そしてそこにずっと自責感が働いてきた。さらにその先には「強いられた」という被害意識と連動しているかれらへの嫌悪感があったはずである。

 おそらくその過程は、私の長い思考の藪の、試行錯誤の痕跡の流れにある。これまでそれを「告発なし」という意識の蓋で停止してきたようだ・・・・・・

 しかしどうもこういうふうに追い詰め、凝りだすとアタマが働かない。これまでもそのくり返しだった。視線を大きく外の空に這わせる。

 「分身」とは、その嫌悪、違和、対立、不和等のマイナスイメージを外してみると、ずっと呑み込みやすくなる。それはどこか、昔なじんだ「自他一体」「と、ともに」「身代わり」「立て替え」のイメージにも含まれそうである。いやこれだってあまりにもお題目化し形骸化してきたが、そんな安っぽいものではない。記憶の底を探りながら、その意味を問い直してみたくなる。

「幅る辱しさに気付いて、他に譲り度くなる」とは何か?
「他の悲しみを自分の悲しみと思い、自分の歓びを他の喜びとする」とは何か?
「同じ途を行かんとされる方と、横の人(中心とか、竪、上下の人でなくて)として固く手を握り合って、共同の目的を達成し度い」とは何か?
「ヤマギシズム社会構成の重大要素は親愛の情によって、全人間の紐帯となすことで、怒りや疑いが少しでも介在しては、不完全なものです」とは何か?

 いいかえればこれらは、人と人との間におけるすべてのマイナスイメージを洗い出し、鏡のように照らすことばになりうるのではないか。私が想定するマイナスイメージとは明らかに出発点であって、問題はそれをどう超えるのかという智恵を暗示しているようにも感じる。しかもその焦点は「けんさん」という営みにあった。ことばは印象に残っていたが、肝心かなめの研鑽と実践を私自身はそこまで進めた記憶はない。

 その最大の帰結は、古来からの実に安易な危機回避法、「不都合な真実」の隠蔽だった。そのヤバい感覚が数重なると薄れ、当り前になる。当面の安全は保たれても理想にクエスチョンがつく。そこにさらに勢いがつけば理想は消滅する。

 それが私の自己嫌悪にもつながってくるのだが、考える糸口さえあればその先に踏み込めるのではないか。一体とか仲良しとかは結果であって出発ではない。「分身」も同じことだ。思いっきり「全人間の紐帯」という尺度で考えれば、かれらも私と「同身」とまでいかないとしても、「分身」になりうる可能性は否定できない。

 しかも私は「少年にどえらい暴行を加えた」、ないし「そのことにずっと沈黙し続けた」ことは直接なかったとしてもその可能性、それに近い心性は今後どうなるか予測はできない。わが論理と心情の自己決済だけで行くしかないとしてきたが、そこにもう一つ「けんさん」という保証が必要な気がする。

 たしかに「社会構想」としてそれらがあるのはいささか気に食わない。それは私にはフィクションではあるが、参考にできないことはない。今さらヤマギシをどうこうする意図はまるでないが、これらのことばは、ひととひととの間柄における魂の道筋に響くなにものかである。かつ大事なことだが、これもそのひとつである。

 理念のことばでなければ、以下の詩も広義の「分身」の表現に当たるだろう。

「/ 世界は多分 /他者の総和
/しかし 互いに /欠如を満たすなどとは / 知りもせず /知らされもせず
/ ばらまかれている者同士/無関心で / いられる間柄
/ ときに / うとましく思うことも / 許されている間柄
/ そのように 世界が / ゆるやかに / 構成されているのは / なぜ?」
                                             (吉野弘「生命は」)

 
そのゆるやかな構成をなぜ? とは、たしか踏み込んで考えたことはない。ひたすら人間間の距離を縮めること、「身内」にすることにこだわってきたが、そこから手痛く撃退された後遺症はあまりにも大きい。しかしここまで考え書いてきて、少々ぎこちないが、かれらもわが「分身」であって悪いことではないと感じ始めている。もちろん誤解があってはならないが、このことは必ずしも和解を意味するものではない。

2017/4/22






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(39) 「アヒルの子」から「白鳥」への物語があった


註)「『1Q84』のリアルドキュメント版か? コミューン育ちの少女のトラウマ映画『アヒルの子』」
(取材記事 2010527)より

-私が見ていたのはやはり映画という表層だけだった。その内容だけでも衝撃だったが、7年前あの映画が上映されていた頃、若い監督はその映画製作のモチーフと実際について、かなり詳細に語っていたのである。今さらながらであるが、その中で特に私を撃ったのは「映画の完成から劇場公開まで5年を要しているが、これは監督の家族全員が一般公開を承諾するのに時間がかかったため」だった。

-実際、映画自体も「良い子の仮面を脱ぎ捨てた監督が家族ひとりひとりに対し、落とし前をつけに行くという非常にスリリングな内容」になっており、私にはその撮影だけでもよく家族が承諾できたなという思いが残った。それがさらにその後の家族の説得にまで費やされていたとは! なぜにそこまでと思ってしまうが、それなしにあの映画は公開されなかった。

「もし、この映画を撮っていなかったら?」という問いに対して、監督は「死んでたんじゃないですか。死ぬか撮るか、という覚悟で始めた作品ですから。もし、映画を撮ってなかったら、犯罪に走るか、どこかの海に沈んでいたんじゃないかと思います」と答える。やはりそうなのか――ふりかえれば、あの映画の主題は幼年部入学を機に、いつ棄てられるかわからない親への不安のために良い子を演じ続け、自殺までも思いつめたトラウマの解決にあった。

--そして続ける。「でも、力の限り投げつけたものを受け止めてくれる人たちがいた。あのとき、自分には映画があって良かったと思いますね」と。その感想を裏づけるように、その後の彼女の変化は目覚ましい。

「それまでの私は映画学校でも友達が全然いなかったんですが、映画製作を通して、多少なりとも人とコミュニケーションできるようになった。今日も初めて会った方たちと話ができたわけですしね。それまでは人と話もできずに、ずっと内へ内へと向かっていたのが、この作品を撮ることがきっかけで意識が外へ向かい出したんです。」

--なるほど、そういうことがあったのかと、私は今さらながら感動する。そして取材者は締めくくる、「映画の中では終始、噛み付くような視線を発していた監督だが、映画完成後も家族ひとりひとりと向き合うことで劇場公開が実現し、別人のように朗らかな顔つきになっていることが印象的だった・・・・・まるでアヒルの子が白鳥に成長を遂げつつあるかのように。」



 私も感嘆しながらそう納得する。昔あの映画を観たとき、「アヒルの子」という主題は了解したが、そこから「白鳥」という道筋はそれほど鮮明ではなかったと記憶する。そのトラウマの現実的な解決は、映画表現自体によって可能となったであろうが、さらにそれと彼女の人格変容にもつながる映画外での活動体験があってこそだと思う。それは家族の再融和や協力、映画という将来進路へのさらなる確定へと突き進みえた。

 他方私はそのことを祝福しつつも、少々厄介な想念がよぎる。いや私のなかでくりかえされてきたといったらいい。すなわち「もし幼年部入学というものがなかったとしたら・・・」彼女の中でそのような<祝福>的なことは(他にあったかもしれないが)起こりえなかったのではないか。すなわちトラウマも含めた負の要素によって。しかしこれは事実というしかない。そのトラウマの解決という思いがけない、いわば<強いられた>課題に直面しなければ、彼女の今はないのである。

 そこでどうしても浮かんでくるのは、どんなに辛いことがあってもそれが「成長の肥やし」になる、あるいは「われに七難八苦与え給え」的な考え方である。そこからなにがしかの「社会的なまちがいごと」が公然ないし密かに容認されてこなかったであろうか。しかし私はやはりそのことを容認できないのである。<強引な子離し>や学園生に対しての<虐待的体罰>によって事態が解決した例もないとはいえないが、なんといってもその犠牲者の方が多いであろう。もちろんその線引きについて、ケースバイケースの微妙さは受け入れないわけではないけれど、それが発端となったと考えられる自死者もいるのである。

  ところでその「容認できない」とはなにを意味し、なにを為すことなのか。当人自身についていえば問題は明解であろう。そのトラウマ状態を容認できないからこそ、そのよって来る所以を自らに、そして家族の個々に問いかけ続け、その総体を表現しようとしたのである。その自発的な達成自体が彼女自身を慰謝し救済しえたのである。だからこそそこに存在するどんな労苦もいとわなかったともいえる。


 しかしどちらかといえばその<加害>の立場である私(ら)からすれば、これまでそれについて煩悶してきた長いプロセスがある。現在私が考えるのはまず、その容認できないことを親自らが行ってきたこと、ないし為すべきことを親が行わなかったことを、わが子に対し事実として認めることである。いろいろあろうが、その一つは昔参画時<取り組み>として子どもをひっぱたいてきた(しかも当時私はそのことを他に推奨してもいた)こと。さらに一つは<個別研>など子どもの置かれたガクエンの現実への無知がずっと続いたことである。

それは自責の念から始まる「謝罪」とか「清算」ということになるのかもしれないが、なんとなく固く狭い。その身近で実際的な場というのは、親子の、家族内の必ずしもことばになりにくい、長い断続的な語らいの中にあるだろう。そこから不意に<向き合う>と意識される時というものがある。それはおそらく親であるかぎり死ぬまで続く、気持ちや心の領分ではないかと感じている。

  そして今回の「アヒルの子」の主人公は、家族との5年の対話によって、自らのねがいを成就できたという事実は、私にとってとてつもなく重い。そのきっかけは子どもの方からの働きかけであるが、要は家族間の個々の向き合いによるウソのない融和を可能にしたのである。

  さらにそのことはわが子以外の他の人々にもかかわってくる。あえていうが、係などで他の子への「体罰」にかかわった、かつての仲間はかなりいるはずである。それに限らず、ジッケンチやガクエンには当局はもちろん、ほとんどだれしもスネに傷があるのではないか(私などは特に参画拡大面において)。しかもそれらは<急進革命>の名において為された。しかし体罰なるものはセッカチ急進の最たるものではないか。

  私も「今頃」とか「今さら」なんてよく使うが、今気づいたことを今語り、今為していくしかない。私は最近、同僚からのカラオケの誘いを喜んで受け入れることにした。直接の目的は嚥下障害防止であるが、語ること歌うことによってもっと前向きに人と出会ってみたい。もっとも部屋に籠って書くことはやめるわけではないが、もっとフランクにかつての仲間と昔話をしてみたいと思う。語りえない難しい場面もたくさんあるだろうけれど。

201749






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(38)「書物の恵み」について ある書評から

(註)『さよなら、カルト村』書評(読売新聞1/19) より

「精神の独立を支えるものとしての書物の恵み。それをここまで実感させる本は現代では珍しい」
今時書評でこんなことを書かせる場とは、いったいどんなところだろうと思わないだろうか。
.
- もはや書物というものが、知的先進者の専有物だった時代ははるかに遠い。念のため書評の主を調べると、知の殿堂たる東大教授の政治学者である。今さら知の価値について、お説教するような立場でもあるまい。おそらくその価値について、再考させるような事態にぶつかったのである。

- 実はその場に、私も20数年も暮らしていたことがあった。その集団に属したのは、まさに書物というものに絶望したからである。錯綜することばの迷路、自己呪縛から脱して、触れること、感じることが至上命令だった。そこで私は「不立文字」の世界を目指し、読むことも、書くことも自分に禁じたのである。

-同じタイトルの本が何冊も並ぶ図書室はあったが、閑散たるものだった。仲間の一人が読書のことを「ヘンな世界に持っていかれそうな気がする」と言ったが、その感じは分かる。しかし本というものは本来そういうもののはずだった。そして子どもらにも、ほとんどの本が禁書命令下にあったと後になって知ったとき、そこまでやることかと唖然とした。

-ところがいつの頃からか、私は出版部門から勧められて物を書きはじめていた。これこそ運命のいたずらなんだと思うしかないが、それによって私は再び書くことに目覚めたのである。もちろんそれはあくまで、その集団の広報・拡大の一環として。

-当時なんの疑問もないままに、私はそこにとことん打ち込んでいた。そしてそのことが子どもへの体罰事件を機に、その集団の巨大化と閉塞と「マインドコントロールや理不尽な管理のしくみに」貢献することになっていたと気づく。

-ここは自分の居場所ではないという直感だけで、私はそこを離れた。残念ながら私には、「中学校の図書室」のような場と時間がなかった。しかしその後私は、まず自分の納得のために「読む」「書く」ことに、生き方を180度逆転したのである。
 
-そこで気づかされることは辛いことも多かったが、究極の喜びもあった。なるほど「精神の独立」とは、このようにして果たされるのか、と。しかもこのことは、年齢はもちろん、早い遅いは無関係であることを知った。もちろん私は「感」の大切さを否定するものではない。これまた「精神の独立」には不可欠なものである。

2017/4/3





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(37)親族の蘇る50年前の記憶と記録

出版隆盛の現代、あらゆる歴史記録類は掃いて捨てるほどある。その中で自分の親族が思がけない、しかも生死にかかわる重大かつ見事な記録を残していたとしたら・・・・・・。Yさんの日録的記述(FACEBOOK)の中に紹介のあった『元山脱出』はそのような記録だった。義父母の昭和21年(1946年)の体験記録だという。終戦時北朝鮮からの引き揚げを許されなかった日本人たちの自力脱出を扱ったものである。その一端を記した短歌(記者は義母)は以下。  

かそかなる影にも怯え砂を踏む脱出の列細く続きぬ
月明かりに乗船終わりぬソ連兵に見つからざりしを共に喜ぶ
大小便も吐くも食ぶるも舟の底異臭は満てど決死の脱出
舟酔いに伏せる人らの中を縫い二歳の吾子は揺れを楽しむ

その結果、「わが二十九年の生涯はこの舟と共に日本海の藻屑となるのか」という決死の覚悟も何とか報われ、南鮮の港に生還、のち日本に帰還する。

-ともかくなんともすざまじい記録である。当時のありのままの事実・真実、しかも多くの短歌も含めたリアリテイーとともに。このような引き揚げの記録はずいぶんいろんな類書や映画や歌にも触れていてなじみ深いが、このように身近に出会うというのはやはり稀なことではなかろうか。私の妻も樺太で出生し3歳時に引き揚げているが、記憶はほとんどない。改めて上の「二歳の子」に感情移入してしまう。

しかし私はそういう内容もさることながら、この記録が50年目の平成8年(1996年)に書かれているということが衝撃だった。つまり私たちと決して同世代ではないが、時代的に重なっているということ。さらにいえば50年たっても薄れない、というより折に触れて蘇ってくる記憶がありうるということ、である。このことは私にはざっと40年前の1976年、北海道試験場参画時の小説的手記を書かせた(2005年頃)情況に近い。その中には私ら夫婦のことはもちろん、わが子の4歳時、0歳時の記録もある。しかも自分でも驚異的だと思うが、ほとんどメモなしの記憶のみで書けたのである。

もっとも当時は鮮烈、感動的な初体験が多かったということであろうが、もちろんいいことばかり書いた覚えはない。良いも悪いもともかく新鮮だったのである。のちに豊里、春日に移ってからの記憶も書き継いでいるが、随所で停滞して今に至る。いろんな要因はあるが、なんというのか日常化されてしまったことは何となく意欲がわかない。むしろムラ出直前からその後の、世間での新体験の方があれこれ書きやすかった。しかしともかく、私は良きにつけ悪しきにつけ、ヤマギシ体験は(そこからの離脱も含め)粉飾なしに記録に残すべき、多くの貴重(希少)体験があると考える。それらは世間の誰もができた体験ではなかったという意味で。

ここから<脱出>にちなんで少し話を飛躍させるが、おそらくあの時期子どもら、元学園生のかなりは、学園からの<脱出願望>を抱いていたにちがいないと思う。例のかやさんコミックはそのいわば背景の<記録>になっているといってもいいのではないか。しかもコミックは代表的な事例であって、実は元学園生は様々な内容レベルでの記録、メモを書いていたのではないかと想像する。なにも残さず、記憶のみが残っている人の方が多いかもしれないが、何かのきっかけに2030年後に溢れ出す人もいるかもしれない。『元山脱出』はそんな想像を抱かせるのである。

そしてその<脱出>を抑え込んできた私ら親や関係者も、かなりの部分は<ヤマギシ脱出>を図ったのである。子どもらに限らずその個人的体験の個人的記録は、よく知られた事柄であっても、どんな拙いものであっても、生きた命がある。その命がそのまま身近な人の生身の魂に伝わる。そういうことの集積と交流が、それこそ過去を隠蔽した姑息な未来志向でない真の「力」になりうるのではないかと夢想する。

2017/3/25




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(36)(続)「さよなら、カルト村」感想


前回、かやさんの<第2コミック>『さよなら、カルト村』感想を、その主題である主人公の将来進路、生き方の沿ってまとめてみた。その後当然だが、私には言及しなかった部分が意識されてきた。それは前作<第1コミック>のいわば<告発的な>内容の流れがどうなったのかという疑問というか、戸惑いのことである。もっともこれは私の関心に引き寄せた思い入れ過多の部分で、作者はおそらくそのことを予想してプロローグで明快な説明をされていた

「読者の方が知りたいことと自分が描けることの折り合いに悩みましたが、〈うーん別に批判したい訳でもなく〉〈そんなに深く村のこと知らないし〉〈昔のことだし〉」・・・・・・

-私はこの<悩み>の告白で十二分に納得がいった。学園の元子どもらにとっては全くその通りである。あの個人差はあるものの、他に類例のない親分離、体罰的環境での心身への損傷とその記憶を可能な限り払拭し、前向きに転身していくことが、かれらにとって不可欠・早急な課題になってきたと思う。いつまでも私のように、<昔のこと>にこだわる方が異常だろう。この本の流れのことが話題になった時、娘は笑いながら「お父ちゃんは罪の意識が強いから」と宣うた。私は苦笑するしかなかったが、そのことばで多くは言い当てられている。

-上のようなかやさんの感想は、今では学園に子どもを託したムラ出の親たちの日常感覚に近いかもしれない。親たちにとっても子どもら同様、喰いぶち、暮らしのこと、老後のことが大問題である。時間のいい意味での濾過作用というのか、多少の罪責感も薄らぎ、沈殿してきて当然だろう。私もそれらの部分では全く共通だが、どういうわけか<罪の意識>というものが少しばかり強いらしい。ある種の正義感というより、自分の育ちや気性からくる部分が多いと思う。それで他は知らず、自分自身の引き受けるテーマとして、<やりたい趣味>としてやってきただけである。

-その延長で今回のコミックを見ると前作の批判的な流れは抑制され、必要があっても客観的な叙述としてさらっと描かれているだけである。そんな中でようやく私が新たに着目できたのは、以下の2点だった。

・〈私結婚しない・・・どうせ子供も産まないし、知らないおじさんと夫婦になる意味が分からない〉という「調整結婚」への批判

・〈自分たちは子供がいないので、子どもに伝えたかったことを本にさせてもらいました〉という最後の挨拶

-この部分は前作ではあまり目立たないが、子どもを産まない決意と明らかに同じ趣旨である。

「小さな頃は親といっしょに暮らせないくらいなら、生まれてこなければ良かったとずっと思っていた。〈私は絶対に子どもを産まない!!〉〈決意〉生まれた子に同じ道をたどらせたくなかったのだ」とある。
-主人公は今もこの決意とともに生きているのであろう。子どもは産もうとして産まれるものではないが、私にはこの決断はやはりいたましいことだと思う。そこにどうしても<強いられた>部分を感じてしまうからである。

-ここで少し踏み止まって、この2冊のコミックがこの世に生まれてきた意味について、あれこれ考えさせられる。この作品は「(わが)子どもに伝えたかった」こととあるように、主人公のすべてが、その魂魄があますところなく表現されているといっていいと思う。それは私なりの思い入れも入るが、やはり「強いられてきたことの表現による自己回復」になっているのではないか、ということである。

-ただそれは「強いられた」という自覚やそれからくるテーマ意識というより、体験してきた子ども時代の日常表現である。その中でたまたま出会ったことが、前作の場合そういう<事件的>なものが多かっただけである。ただそうであろうがなかろうが、そこにある強い衝迫がなければ表現しようとする目的意識までは届かない。それはおそらく表現されてこそ鮮明になってくる景色だと思う。

-このような意味で元学園生の自己表現として思い出されるのは、ドキュメンタリー「アヒルの子」である。もう1作、別作者による中等部時代の体罰を扱った作品もあるらしいが、残念ながら私はお目にかかれていない。そしてこのような表現欲求は、そのことを自分なりに整理し、捉え直してみなければ前が見えてこないというかなり切羽詰まった自覚から始まると思う。

 それはなにも元学園生だけでなく、あれこれ長く書き継いできた私自身にとっても同じことである。ともかく書き表してみなければわからない。それによって表現できてきたことは、それがどんなに不幸なことであってもそれなりに了解可能なのである。それ以前そのことは、さしあたりまず「強いられた」ものと認知されるしかない。

- このことは以前にも紹介した(『わが清算ノート』)ことがあるが、以下の吉本隆明のことばが私には示唆的になってくる。
「人間は求めて波瀾を手にすることもできなければ、求めて平坦を手にすることもできない存在です。ただ、<強いられ>て、はじめて生涯を手に入れるほかないものです。」(対談集『どこに思想の根拠をおくか』)

-少々謎めいてその正確な意味はとり辛いが、いうなれば個々の人生の課題というものは、しばしば「強いられたことの捉え直し」から発するものだと私は理解する。それは著名な文学者の幼時体験が作品の動機になっていたり、成功した実業の発端がその失敗の乗り越えであったりする。それぐらいこのことは普遍的な認識になりうるとは思う。

-いいかえればその「強いられた」という主観のなかに、自己と外界との切実な接点がありうるということだろう。私はそれを自ら救うものがあるとすれば、「自己表現」だと考えてきた。自分で自分の置かれた状況を確かめる手法というのか。

他方また逆に、だからといってそれは「強いてきた」と考えられる、あるいはその自覚がある当局、親、各<われ>、私が、様々なレベルで「強いてきた」ことを肯定できることではない。はっきり言って理念上の破たんや制度上の無策、失策に頬かむりして、あとは子どもらが何とかしていくはずだと考えるとしたら、そこに無理がある。

しかし事実はそのように進行していっただけである。とはいえその<無理>を二度とあってはならないこととしてどう根拠づけ、そうなってしまった心の中身をどう<清算できるのか>について私(たち)はいわば悶々ともがいてきた。それは無力な営みに見えるとしても、そのことは最低限、沈黙のままにおれることではない。

- 主人公はこのコミック2冊の表現活動を通して、おそらく<マイペース力>を持続、かつ守り抜き、強いられてきた自己世界を一段と広げてこれたであろう。それによっていわば「生涯を手に入れる」門口に立ったといってもいい。今後の一層の活躍を期す。

2017/3/11




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(35)高田かや「さよなら、カルト村」 感想

 このコミックは、前もって想定していた期待とはちがっていた。期待というのは、前作「カルト村で生まれました」の強烈なイメージが残っていたし、実際表紙の囲み広告では「結婚は村人が決めたおじさんと!?」とあって、今回も生々しくなりそうだと思ってしまった。しかし描かれたことは主人公の将来進路、生き方が主題であり、それはそれで切実で核心的なテーマだった。

 そこで、他にも寄り道したい多くの生活エピソードもあるが、焦点をそこに絞って考えてみた。その中で思いがけなく私の目を引いたのは、①「一般の本」の読書体験であり、②「村の実習生」の体験だった。...

 この①の中等部生頃からの読書というのは、当時の学園生への禁止項目に反するが、主人公の場合明らかに後のコミック制作の土壌づくりになっている。この偶然的な継続が、彼女ののちの人生を切り開いていったという意味で、きわめて興味深い。さらに彼女の読書体験が重要なのは、それが単なる<お勉強>としての知識の習得でなく、好奇心ないし面白さの発見、さらにはそれが自己認識、自己表現につながっていることだった。

 この好奇心(自己興味)、自己表現は『ジッケンチ学育外論』(2010年、左上資料編参照)を書いた時から、私にとって「学ぶ」ということ、さらに大きくいえば生きていく上の大切なキーワードであった。ところが学育、学園が進めてきた実態は「教えない、学育」と称しながら、このコミックに詳細に語られているように「もちろん個人の意思は関係ない」の指示、配置、強制、反すれば体罰の連続だった。このことの意味は今もって解せない。

 このことは、例えば山岸さんが言われる子どもらの日々の自己表現である研鑽について「自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます」、さらに将来の進路について「自分に最も適した、他に真似の出来ない生き方をすることが、一生を意義あらしめた事になります」などの発想とどこでどう整合性が取れるのか? このことは定められた範囲のミーテイングで自由に話せるという次元の問題ではなく、「学育」の根本理解、それによる制度・仕組みの根本にかかわる。

 ただこの<村出>コミックでは、それらのことはあくまで既定の事実として語られている。やむをえないというより主題がそこになかったのであろう。さらにこの人生における意味については、下世話で端的にいえば、主人公は「趣味が仕事の生き方」を実現できていったことである。このことは誰にとっても憧れであろうが、万人にその道が開かれているわけではない。もっともこのことを何かしら功利的成功譚として捉えるつもりはない。主人公にとっても複雑な心境だろう。

 そのいわば焦点である自己興味の萌芽は、実は子ども時代、誰にとっても何かしら夢中になってしまったことにあった。私にも覚えはあるが読書はまさに暇を盗んでのラン読だった。それが、この年までつながってきているという自覚がある。

 このいわば<耽溺>の中心にある感覚はおそらく、いつまでもおそらく飽きがこない、すぐに集中できる、体は疲れてもアタマはどんどんすっきりしてくる、自分を取り戻せた・・・。これらはまさに自己興味から発してきたことの実感だと思う。このことは、ここ10年まさに読むことよりも書くことをやり続けてきた私の実感でもあった。

 このことの人生上の意味は、自分の職業になろうがなるまいが、自己興味に基づく表現世界を持ちうるか否かは、私は人生の幸福にとって決定的なことだと考える。普通には「趣味」という便利な言葉に委ねてもいいが、もう少し欲をいえばそのこと自体が生きること、ないしその代行とも考えられてくるのである。このことは人間の好み、興味、嗜好のありとあらゆる分野であり、そこに何の優劣、上下があるわけではない。

-それぐらい大切なことが、ムラの学育・学園の課程の中できちんと位置付けられていたという形跡を思い出せない。まさか将来食べる心配のない社会だから割愛したわけでもなかろう。おそらく<我執>増長への警戒感が強かったということかもしれない。

 娘の場合も、いろいろ煩悶もあったようだが高等部→大学部のコースを歩んだ。当然野菜作り、というかその「作業」ではベテランだったはずである。だが、今は野菜はどこへやら、中学生のころ内緒で始めていたデザイン画に没頭している。このことは何かしら象徴的でもある。「もっと畑1枚とかまるまる任せてくれたら」というのが、娘の回顧の弁である。

 その煩悶に関わることで、娘はコミック主人公と自分とのちがいとして次のように語った。
「私の場合は<恐怖の突っ走り力>で毎日何とかこなしてきたが、<恐怖>というのは中等部時代にぶつかった個別研のことで、何とかそれを避けたいために必死にかけまわっていた。ところが彼女は<マイペース力>がすごかったと思うの。少々ドジかもしれないが、個別研をけっこう受けているようだし。ただそのことの観察、反省から自分のことを見て、かえってマイペースが揺るがなかったと思う」

元学園の仲間のことでこれだけ立ち入った感想は初めてだったので、私にはどんと入ってきた。しかもテーマは、「あの時期をどう乗り越えてきたか」という肝心かなめのことである。このことは子どもらだけのことではなく、親や大人たちがその時期をどう越えてきたかというテーマと連動する。もっとも当然、このような恐怖や圧迫を与えてきた人々、親(であった私)、その体制・背景の問題まで当然広がっていくが、ここでは割愛する。

ただこのことで私が強い関心を持ったのは、②「村の実習生」のことである。この「自由がいっぱい」「やだ、この生活かなり楽しい」と主人公に実感された環境は、「当時実習生は村の本流から外れた子供たちだった」とある。しかしそのような先入観をはずしてみれば、私はそここそ<村の本流>になってもいいと考えてしまう。またそういう環境でこそ主人公にかぎらず、子どもら個々の自己興味が自然に発見、熟成されていたのではないかと想像される。そして改めて組織体制ができあがってしまうと、「本流」とか「エリートコース」などの無意識の信仰が、自分の中でものさばっていたことを痛感する。

 そこからしばらくしての村の変化を見て、主人公は「へ―意外と何でもありなんだなあ」「私ももっと自由にやりたいこと考えても良いのかも」と考えだし、ついには「ここは私のいる場所ではない…少なくとも私にとって理想社会ではない」という結論に至る。まさに「マイペース」人間としての本領躍如である。

そしてこれまで、どちらかといえば<われ関せず>の否定的ニュアンスで使われてきた「マイペース」が新たに蘇生してくるような感触がある。それは端的に言って「その人らしさ」であり、あるいは「と、ともに」の「われ」とどこかで接点を持ちうるものだ考える。またひるがえって親として考えれば子どもらが学び育つという観点からしても、「○○しなさい」というより「もっとマイペースでいきなさい」という助言が大切だった時期があったかもしれない。

2017/2 /24






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(34)「人としてのありよう」を探り感じ合うこと

(始めに「投稿」について断りしておきます。このHPビルダーでは技術的にややこしそうなので申し訳ないが、投稿なしできました。ただほぼ同趣旨の内容を掲載してきたFBには投稿可能です。それで私が「投稿」という場合はFBへの投稿を指します。)

先回の「わが清算ノート」への関連投稿の中で、私には大事な内容に触れていると感じたBさんのものを、一部割愛の上紹介させていただく。

「私は、村で10年 、私の中で総括に、10年、そして、私なりに、さらに探求して10年かかりました。ヤマギシの村びとは、多少相性はありますが、いい人ばかりだったのではないかと思っています。でやって来たことは、過ちの連続だったのではないかと思います。そして人間はそのような、宿命を背負って生きていると思います。・・・・・・村時代の事は言いたい事は山程ありますが、多分離村した方は、辛かったと思います。ただ私は、文章力もないので、上手く伝えきれませんが、同じ時代同じ空気の中に居てもその結果同じ生き方するとは、限らないということです。辛かったことを、引きずる方もいるだろうし、辛かったことを、プラスに転換して生きている方も居ます。同じ過去でもその後は、100100様だし、同じ人でも時間と共に捉え方も変わって来ます。ただ私は今を精一杯楽しんで生きて行くのがいいねと思います。(*^^*)

何しろざっと20年前のことである。その過程でヤマギシテーマへの向き合い方というのは、人それぞれに<浮き沈み>がある。というか一般論としてどんどん<沈んでいく>。つまり拡散、忘却、霧散していくのが無理のない自然な流れであろう。だからこそ私の現在は、多少<ずれている>というように見える投稿でも、とてもありがたく感じる。あの強大な流れに流されながら、一瞬でもお顔を挙げて私のような<原則論>にも反応していただいたと思えるから。

そんな中でBさんの投稿は一読、その内容の真摯さに打たれた。他は知らないが、どういうわけかずっと<言いだしベー>を続けてきた私のような存在は、やはり特別視されるだろうし、また自分でもそう見做しがちだった。なにしろ、あの頃のことを、あの子どもらのことを、また中枢にあったかれらのことを・・・どう考えるのかと自分に問いかけ続ける<神がかりの亡者>のような存在でもあったであろう。普通にストレートに意見を述べるには、なんらかの躊躇がないとはいえない。

しかもそのBさんは、私がこれまで何かとやり取りしてきた<常連>とは一線を画すような位置にあったと思う。しかしそのご意見はこれまで私が手探りしながら特に表明してこなかった問題意識に触れるものであった。一つは、ひとそれぞれ「100100様」ということであり、もう一つは「人間、過ちの連続という宿命を背負っている」という観点である。ただこの後者について「宿命」とまでつき詰めたことがないので、今後私の不可欠の宿題となってくるだろうが、今はそれへの反応を割愛する。とはいえ先の問題意識は、先回も触れたように私の生き方のかなりの偶然的要因と関わってくる。

そのことの整理の大きなきっかけの一つが、先回のSさんの「何か良いことをやっているという感覚」の指摘である。というのは、私のこれまでの長い発信の継続は、何らかの使命感を前提にされてもやむを得ないと思うが、基本的には「わが心の良くて」続けられたわけではない。しかし時にその使命感的な感覚、「誰かがやらねばならないことを、自分がやるだけ」的なものにぶれることもあった。

「わが清算ノート」は、いわば自己カウンセリング的なものも含めたその告白であった。いわば私自身の心の必要から発していることで、誰もがそうすべきだとは全く考えられない。

 そこにBさんの指摘が重なってくる。

同じ時代同じ空気の中に居てもその結果同じ生き方するとは、限らないということです。辛かったことを、引きずる方もいるだろうし、辛かったことを、プラスに転換して生きている方も居ます。」

まさに然りである。その早い遅いに何の優劣がある訳もない。私の方が思い切り悪く、延々と引きずってきただけだともいえる。

ただ私の場合、その引きずりが可能になっているのは、「半ば強いられてきたことへの、心残りの清算」、いわばそのことをいつしかわがテーマして、やりたくてやってきたからである。あっさり断定すれば私は延々と「自己史」を書き継いできたといってもいい。これまでのHPタイトル「挫折体験と自己哲学」「ビジョンと断面」「反転した理想」といわば曲々しいが、ただその発端が「半ば強いられた<事故>」的なものであったというだけである。

たぶんこれは自己興味から発する<趣味>であり、普通の作家であれば必須であるだろう取材を自己体験で済ます便宜が先行する。それだけでなくこのヤマギシテーマというものに、私は何か得体のしれないドエライものを感覚しつつあり、自分のあの世逝きまでの最大のテーマに化しつつある(だから長生きが必須である)。

--それはあくまで私の直感的なイメージだが、例えばジッケンチというものは今でもかなり不可解な要素がいっぱいあるが、その将来はどうなっていくのかについて強い関心がある。そこにはいわばプラスマイナスも含めて、あらゆる人間的な要素が混在していると思う。しかもそれはその<ムショユウ>生活も含め、そんじゃそこらには見られないものであり、それがそのまま未来へと移行していくのである。

--私もかつては、そのようなジッケンチがどうなったらいいかについて、それなりの問題意識を抱いてきた。今もそれは失われていないが、どうしても「理想というものはここまでくるのか」という詠嘆が先行する。その詠嘆の出所として想い浮かぶのは、「新しい葡萄酒は新しい革袋に詰めよ」の古い箴言の真実である。さらにそれに<過去消却による未来の喪失>をつけ加えてもいい。

もちろん私は、事の発端であった多くの傷ついた人々への責任意識を放棄するものではない。そしてかかる過ちはまた絶対に繰り返してはならないとも考える。そしてそのため最低必須条件として過去のあやまちの記憶と記録の収集は不可欠である。というのは、私は時代を領導できるような新たな優れた構想や理念の魅力についておそらく疎い人間かもしれないが、それらはこの地上に突然降って湧いたものではなく、必ずや過去の長い蹉跌の来歴があることを知らざるをえないからである。

ただここでいう「絶対」とか「不可欠」という表現は、これまでの「自分のやりたいことをやる」という考えと矛盾するかもしれない。しかしこういう感覚はいったいどこから出てくるのか? 一般的には好みや趣味とはちがった次元の「人としての道義」とか「歴史への貢献」ということになろうが、またしても「崇高本能」や「魂の領域」に救いを求めたくなる。その延長に理念的なものを抱え込むとしたら、またもや同じ過ちをくり返しそうな気がする。しかしどうしても、そこにそうでない基準のようなものが、ひょっとしたら存在するのかもしれない。

その恰好の落としどころとして、Bさんの言う「人間、過ちの連続という宿命を背負っている」という命題もありそうにも思う。しかし私はまだそこまでは行きたくない。まだまだ人と人との間についてまわるある<絶対性>とでもいうべきもの、それが理念や宗教に転化してしまわない、わが心のうちの裸の諸相を見つめ感じていたい願望のようなもの・・・が残る。

そのために思いつきだが、私はヤマギシに限らずあらゆる人災的な災厄には、必ずやその詳細な記録とそれへの真摯な究明が残される<記念館>が必須なように思う。あてにならない<理想>なるものの吸引力(とその災厄)に任せる以前に、そこがいわば<理想運動結果>記念館として万人の生きた学びの対象となりうるような場、である。

ただそのことは今すぐどうこうという話ではない。なんといっても原則は、個々人の好みとそれによる自己表現を外すことなく、そこから「人としてのありよう」を探り感じ合っていく営みを続けていくしかないのではないか。少なくとも私はそうしていくだけである。

2017/2 /16






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(33) わが「清算」ノート

  

先回「清算」の動機としてSさんから、(主旨)「崇高本能も夢も希望も危うい。自分のやりたい事をやりたいようにしているだけという自覚が大切だと思う。かえって良い事をしているという感覚が膨らむのが怖い」という投稿をいただいた。とても触発されるもの、特に私のなかの未分化な部分を感じさせていただいた。以下はその感想・思索の断片になる。

1)「清算」の方法として私にできることとしては、「書く」ことしかなかった。もっと広くいってそれは「自己表現」ということであり、人それぞれの自己表現の方法があるのだと思う。私の場合は、わが子や人々に取り返しようのないことを仕出かしてきた、ただただもうしわけない思い、悔恨、愚かさ、その苦しみ。そこから始め、その背景、よって来る所以を問い続けること――

2)そのいわばモノローグの営みからいつしか見えてきたものは、鏡に映るような自分自身の姿だった。そこから感じられるようになった「自己了解」と慰謝の感覚はとても不思議なものだった。それは心理学の方でも説明がつくことでもあるようで、いわゆる自己カウンセリングに当たるものらしい。そこでは「防衛機制」(危機状況時に発生する自我の再適応メカニズム)なるものが無意識に働く。私自身はそれほどたいそうな危機感を抱いたとも感じていないのだが、家人によれば夜中に寝言を言ったり、叫んだりした時期はかなり続いたようである。

3)「崇高本能」についていえば、私は自己カウンセリングの不思議さに、人間の持つ精神作用の微妙な深淵を感じ、それに一般に該当しそうな用語として(他に見つからないまま)「崇高本能」「魂の領域」などをかなり無自覚に使ってきた。特に「崇高本能」についてはご本家の山岸さんの真意はあまり解らないまま、その人間個々の意識的部分を超えた「――本能」に感じるところが多かったと思う。しかしこれは誤解されて当然である。「崇高本能」とはまさにイズム用語(おそらく山岸さんの真意とは異なる内容での)だから。

4)ともあれ私は私の必要にしたがって「やりたいことをやってきた」のである。そんなわけで私には「良い事をしている」という意識が基本的になかったと思う。ただ理念や思想体系に弱い人間だったことは承認できる。だから何かしら義務感のようなものに支配されていなかったかどうか? と訊かれれば「ない」とは言えないと思う。そこに「人としてなすべきこと」という音叉が鳴ると共振しがちな私のことである。

5)ただわずかな一線かもしれないが、そう見えてしまいそうな「べき」の、さらなる自分の底に沈潜できたような実感がある。というのは自己分析をしたからといって「良い事」ばかりには出会うはずがない、むしろ逆である。

6)私の念頭に時折もたげるのは「かれら」のことである。組織中枢にあった「かれら」とて、人間であるかぎりそこに自責や苦しみ、それへの共鳴がないとはいえない。たしかに沈黙に弱い私からすれば、「よう持っていられるなあ」と感嘆するが、「かれら」も多くのモノロ-グを呑み込んできたと想像する。想像をさらに膨らますなら、おそらく子どもらの無数の苦悶よりももっと大事なものを護持する<必要>に忠実だった――と類推するしかない。その姿勢だけは私はとれない。いやとれなくなってきた。

7)そしてその<必要>のベースになっているのは「自分たちこそ真理・真実の体現者」という自負でもあろう。これこそSさんがずっと問題意識として抱いてきた、ヤマギシが誤ってきた根拠となる感覚だった。すなわち「理想を実現しようとした人達が、陥る罠、"自分たちは正しい事をしているのだから、何をやっても赦される"」という感覚。

8)私の「やりたいこと」の中身であるが、私は大昔の吉本隆明にならって「半ば強いられて」という形容詞をつけないわけにはいかない註】。いわば「強いられたことを、わがテーマとして、やりたくてやってきた」のである。これはいわば二律背反のような奇妙な言い回しである。

9)「強いられた」とは、いうまでもなく相手のあることである。それは大きくはヤマギシからの離脱を指す。「人のせいにするな」とは言われそうだし、何度もそれではならじと自分にも言い聞かせてきた。しかしここはありのままに行きたい。まさに今さらながらであるが、ヤマギシに参画した当時のあの自発性、自由意思とはまるで感覚がちがうのである。「自分もそのことには責任がある」という見直しはその後のことである。この順序を抜きにすることは無理だし、無理すればそこにウソが生まれる。

10)そしていつしか問いかけは「私の人生にとってヤマギシとは何であるのか?」に収斂されていった。そこで判明してきたことは、「理念とか思想体系に捉われやすい自分」という認識だった。その出発点にあったのは学生運動だったが、それもどちらかといえば少年時からの「強いられた」ことの総決算、取戻しであった。そのようにして私は自分の子ども時代やその頃の親子関係にも目が向いてきた。

11)このところの私の「勉強」からすれば、その強いられたことはとても「半ば」どころではない。もう乳幼時期の親からの刻印から始まっているのである。それも「いま泣いた子がまた笑った」という実に素早い子どもらのいわば<清算><転身>によって、その記憶に残ることなく親たちは救われてきた。最近読みだした本に『魂の殺人――親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー)がある。これはかの『1937と同じく読みだしたら止まらないが、すぐ止めたくなるコワーイ本である。

12)夏目漱石、太宰治、三島由紀夫など著名な文学者の作品の動機が、彼らの乳幼児期の「愛着障害」から発していることはほぼ確かなようだ。そういうことも含めて敷衍すれば極論になるかもしれないが、個々の人生の課題というものは、本来は「強いられたことの捉え直し」から発するものであり、その「強制と自発の対極要素」をドッキングさせることにあるという示唆を感じる。そこにSさんのいう「夢や希望も危うい」とする認識の根拠があると思う。特に私のような体験やあるいは年齢を踏まえる限り。

13)当然のことだが、この清算は、いまだ人生の途上にもいかないわが子や子どもらが学園での暴力(まさに最大の理不尽なる強制)を受けたことと不可分のことである。まさにかれら自身がそのことを、自ら捉え直す必須の営みをそれぞれに経過してきたにちがいない。そしてかれらをそう<強いさせて>しまったおそらく最大の要因に、親の無知や盲信やおろかさがあった。俗にいうではないか、「だました方も悪いが、だまされた方も悪い」と。

14)元参画者のある母親の感慨が印象深い。「子供達を守れなかった母親。今は、息子や娘に祈る事しか出来無い。そんな事を受け止めて。どうか、脱ステロイドが成功します様に。母の懺悔の気持ちを込めて」。 私はかつて仏門にあった人間なのに(だからこそ逆に)、「懺悔」ということばはこれまでほとんど使ったことがない。しかしその気持ちは諄々と沁みてくる。あれこれ理を立てるより、その方が自然で素直な気持ちなのかもしれない。

15)ふりかえってみれば、時間よ止まれ!」といいたくなるような無数の瞬間があった。あそこで止まらなかった、いや止めるものがなかった。その切なさ、悔しさ。おそらく「書く」ことはそれを止めてみる方法の一つなんだと思う。「あったことを今現在に」してしまうというのか。その「見・直す」という精神能力が人間に与えられているからこそ、過去は過去にならない。過去にやれなかったことを今からでも始める、そういう未来への辿り方があるような気がする(いや、ほんとうはそれしかないような)。


註】記憶しかなかったが、検索してみると以下

「人間は求めて波瀾を手にすることもできなければ、求めて平坦を手にすることもできない存在です。ただ、<強いられ>て、はじめて生涯を手に入れるほかないものです。」

「――個人の意志、判断力、構想が貫徹されるのは、ただ、半分だけで、いったん現実に衝突してからは<何々させられる>とか<何々せざるをえない>とか<何々するほかないように強いられる>という根拠が、個人の生涯を占有するようにおもわれるからです。つまり、生誕のときと変わらないようにできています。」

                     (対談集『どこに思想の根拠をおくか』)

2017/2/3








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(32)?投稿? 「清算」ということ        関口久子   


//この場で、福井さんがあの当時の御自分自身と真摯に向き合おうとされている事に、本当に頭が下がります。私は、今まで、「自分自身の思想に、酔ったような状態のバカな自分の仕出かしてしまった、取り返しのつかない我が子への暴挙」と思っていても、一つ一つ丁寧に、そのプロセスを観て来なかった気がしています。我が子を放した親として、何を思っていたのか?私も少しづつあの当時の自分を掘り起こして行きたいと思います

 私は、不登校になってしまっていた娘の為に、なんとかこの状況を変えたいとあの当時、大学付属養護の親達と子供達の将来を見通した、施設造りに動き始めていました。親達で、何回かの話し合いもしていました。比較的経済的に恵まれた、安定した暮らしの人達の集団でしたので、相当の出資をしても、子供達の為ならと言う雰囲気でした。そのような時に、友人の不登校だった子供が、楽園村に参加して、すっかり変わり、積極的になった話を聴いたのです。

// 知的障害のある子供でも、参加出来るのかな?という私の疑問に、ヤマギシの供給所のSさんの答えは明快で、「うんとかいやとか自分の意思を出せるならやれる」と。この返答は、私には、何よりヤマギシの考えを、素晴らしいものと思い込むきっかけになりました。そして、楽園村に何回か参加して、娘は、変わりました。不登校前の明るい笑顔とお茶目な可愛さが、戻って来ました あの親から離す一週間は、大切な期間だったみたいです。だけど、一週間だからなんだとは思わず、ずっと放したらどんなに素晴らしいか!と思い込んでしまいました。

 二人の娘を放して私は、やれるのか? と考えると一週間以上泣き続けました。だけどその思いが、子供達を縛りつけているのだと、理念で母親の感情を振り切ったわけです。どこまで、子供達を放す先のヤマギシの村の事を知っていたのか? と問われたら、今ならただ茫然と立ち尽くすだけです。

   あの頃の組織としてのヤマギシの村を、解明したり、やった事の「清算」を組織としてやるのは不可能ですよね。構成員一人一人が自分の立っていた場所と当時の気持ちから、出来るだけの誠実さで、それぞれが、省みるしかないと私は思っています。ですから私は、自分の観える全体像として、「理想を実現しようとした人達が、陥る罠、"自分たちは正しい事をしているのだから、何をやっても赦される"」という感覚に、程度の差こそあれ全員が陥っていたとしか言えないのです。

 そしてヤマギシに関わった人達は、多分そういう感覚の強い人達なんだろうなと私は思っています。だから対象は変わっても又同じような事を繰り返す危険があるように思われ、特に自分自身は、二度と同じ過ちを、繰り返したくないから、当時の自分を掘り起こしたいと思うのです。社会的にやろうとしたら、仕組みとか経営面とか、外側から推測出来る範囲内でしかやれない訳です。その当時の担当者達が(今も同じかな?)決してそれをやろうとしていないし、おそらくその必要性等全く感じていないでしょう。

 清算は、自分でしかやれないし、人に強要する事もできませんから、自分は、こう思うという事を発信するしかないのでしょうね。清算の動機について「崇高本能」などを挙げておられるようですが、それも含め夢や希望も危ういなぁと思う私です。自分のやりたい事を、やりたいようにする為に生きている――それで、充分な気がしています。

 「自分のやりたい事を、やりたいようにしているだけ」という自覚が大切なのかなぁと思っています。良い事をしているという感覚が、どんどん膨らむと同じ事の繰り返しになるような。社会的に言えばそれを認めあい、支えあえたら良いなと思ってしまいますが、まずは自分自身だけで。他人に求める事ではないでしょうね。

 保育の現場でも一人一人の子供がやりたい事をやりたいようにやれるように、サポートしているという感覚で、観ています。ダメ は、危険な事以外はほとんどありません。面白い事に、他の子供のやりたい事を邪魔する事がなくなりましたね。時々取り合いっこをしていますが、別の子供が、代わりのものを持って来て、とりなしてくれたり。自分の回りだけども、強要のない穏やかな暮らしをしたいと思います。

2017/1/27





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(31)幼年部再考  思い出されること

私のなかでオネショ研をめぐる論議は意外に大きかった。まだまだ触発されてくるものがある。それはこれまでの私の究明・思考の営み――幼年部再考「幼年部とは何だったのか?」――からすれば思いつきのような寄り道であった。しかしその寄せられた投稿を通しての論議の過程で見えてきたのは、現代の新たな知見や学理に触れていく重要性ということだった。そしてそれは私一人のささやかな「勉強」だけではとても追いつかないことでもあった。

そしてこういうことは、実はざっと30年以上前の幼年部構想段階ですでに済ませておくことだったのではないか、と私はようやっと気づくのである。そのいわば当たり前のことを私はやっていなかったし、おそらく他の誰もやってはいない。おそらくそこには、幼年部にかぎらないが、あのジッケンチでの牢固たる悪弊(それに無自覚な私)があったと思う。長い年月をかけて蓄積されてきた社会の知的業績への無関心ないし軽視。「世界中、どこにもないことをやっている」というあまり根拠のない自負。なぜ山岸さんが「学者に一卵を」の姿勢を堅持されてきたのか、についての無頓着、さらに急進革命の必要等々が。

それは同時に、この間私が乏しい知見なりに書き継いできたこと乳幼時体験「離す―離れる」の原型時代からの影響に新たな意味を照らし出すものだった。それは昔やらなかったことを今頃になってやっているという感覚だった。そしてそれはあまりにも遅すぎる「取り戻し」でもある。それはまだ現代の最新の知見にも到達してはいない。

このことはもっとシビアーにいえば、かつての巨大な<借財の清算>の一部に関わる。というのは、<借財>とは、くり返すまでもない。他にもあるかもしれないがその最大のものは、子どもらの育ちと<引き換え>に参画した親たちのその後の運命にもかかわるからである。

したがってそれは「清算」とは言うものの、申し訳ないがいわば返済不能な事柄である。しかし事の原因・背景・理非曲直を明らかにする<清算>は不可欠なことであろう。自分でも危ういことだが、そこに「崇高本能」というか、人としての魂の領分が存在するはずである。70年前の戦争の<清算>が今も続いているように。

さらにそれは、このところ蘇ったわずかな記憶からもくる。それは、かの『愛児へのおくりもの』の中でわずかに記述してある父親の疑問「まだこれからのことで、テストされていないじゃないか」であった。しかしこれはすでに、別の意味で<テスト>されてしまっている。もっと正確にいえば事はテストなしに「実行」されてしまっているといっていい。

いいかえればこれは本来一つの「社会実験」として、育児学上の重要な論点についての描きと究明による慎重な配慮の下に為されてしかるべきことだった。しかしそれなしにそのまま実行され続けて10年以上になる。その結果があまりにも当然な<借財>として累積されてきているのである。

もちろん何の記録もないわけではない。広報宣伝のたぐいはゴマンとある。しかし必要なテストとしての記録、いいかえれば肯定面と問題点をきちんと対比させたものとしての記録はない。私自身もそのような自覚はまったくなかったし、思いつきの問い合わせはあっても追跡調査らしきことはなにもしなかった。

あのドキュメンタリ-『アヒルの子』を観たとき、私はそこに私が為すべき追跡調査を作者が代わりにやってくれているような気がした。それは直接幼年部の育ち全体の当否について評価を下す資料とはいえないにしても、幼年部についての公開された稀で貴重な資料といえるものだった。その中でもうすでに若い母親になっていた元幼年部生が、オネショの思い出について語っていたのである。かなりのマイナスイメージとして。

重要だと思えることで、もうひとつ思い出されることがある。それは「乳・幼時体験」について調べているときのことで、あの幼年部入学前の「親面接」のことである。そこで私などムラの受け入れ側が問題にしたのは、はっきり言って<イズムへの姿勢>だった。これはたしかにある親たち――取り組みなしに<恰好の預け場所>のつもりの――親を、受け入れないことはできた。

しかし、子どもの育児歴なかんずく乳幼児期の親子関係について何一つ訊いてはいなかったと記憶する。いいかえればそれに全く関心がなかった、といっていい。少なくとも子どもの<ほんとうの育児>を扱うと称する専門機関が、いったい何を受け入れるつもりでいたのか? と自らに問わざるをえない。私は後になってたしかに母子分離トラウマについては気になっていた。しかし問題になるかならないかの観点だけだった。

以前すでに紹介したが、印象的だったのは、NHKプロフェッショナル 仕事の流儀」の中での介護施設経営者・加藤さんの取り組みだった。その認知症老の生活歴について施設側は家族と頻繁に交流していた。子どもについても同じことで、引き受ける側で、送り出す親との育児歴にも気にかけた心の交流が、随時必要だったのではないかと思う。それは係がひとりひとりの子の心に触れあうことにもなる。

そうなってくるとそこに規模の問題、期間の問題等から始まり、そもそもあのような長期の子ども合宿がほんとうに必要だったかどうかが問われてくるだろう。

2017/1/22







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(30)「オネショ研」とは何だったのか?

私は、たまたまある地方実顕地の「学園だより」を目にする機会があった。幼年部・初等部併設のミニ学園で、かなり古い。記憶にないが、内容はとても懐かしい。

中でも目を引いたのは、「オネショメニュー」についての記述だった。いわゆる「オネショ研」の中で子どもらがなぜオネショをしたのか(いやよく見ると「しなかったのか」の記述もある)出し合って考える。すると水分摂取の量が判るから、食生活の方で、水分量を調整する。ところが子どもらの取り組みが進んで(一度起きる、量を控える)くると、食生活の方で「今日は思いっきりどーんとオネショメニューを用意しました」という声が出る、という。

ナニッ? と私は驚く。これまでの情報(特に「元学園生の手記」2013年)以降、オネショといえばすぐ「寒い日でも外に出させ、裸で水をかける」などの体罰的な対処が頭に浮かぶ。同時に私は初期の阿山幼年部で「オネショ研」とのつきあいがあったので、なぜそこまでと思ってしまう。これに「かやさんコミック」の大がかりな体罰情報(特にオネショ自体を指してはいない)がかさなってくる。おそらく実状は、オネショ研でもどうにもならなかった子が、大人数の学園の中では出てくるということだった、のかもしれない。

したがって、上のような「オネショ研」への取り組み情報は、いつの間にか私の記憶の中で薄らいでいたせいか、とても新鮮に感じてしまう。そこで私も漠然と「昔はよかったのに」とか「どこで変質したのか」という直感的な反応になっていたと思う。実はオネショ研の場合は、大昔のヤマギシ刊行物『天真爛漫』(1980年)にも取り上げられていて、私にはいわゆる<研鑽学育>の目玉のようにも見えたものだった。

そこでその趣旨を少々別の観点も含めFACEBOOKに投稿すると、早速昔世話係経験のあるムラ出の旧友から、

「私の記憶では小学生でオネショをする子の割合が多すぎたように思います・・・そして多くの子の前でそのことが明るみにされて、どんなにか恥ずかしい思いをしたことだろうと思います」とあった。

私は赤面した。幼年部ならまだしも、小学生の特に女の子たちには、充分ありうることだと感じたからである。ところがあの「学園だより」では、どういうわけかそのことには一言も触れていない。特に意図的なものは感じないが、テーマはメニューのことだったので、特に記述する必要がなかったのかもしれない。

そこで元学園生だった娘に確認してみると「そりゃあ恥ずかしかったと思うよ」の一言。ただし彼女はオネショがなかったので、オネショ研はあったと思うが実情はわからないという。ただオネショ常習の子への体罰的な立たせはよく見かけたという。

その後、同じムラ出の女性で現在現役の保育士の方からオネショについての専門的な知見が届いた。要約して列挙する

・親の愛情に満たされ、自律神経が正常に機能していれば、四歳過ぎたらまずオネショはない。
・オネショをしたら子どもにどうこう言うのでなく素早く処置して、何事もなかたかのように普通に過ごす。
・オネショの原因はさまざまにあり、園の環境・対応、親子関係、兄弟関係など。時には親と相談する。
小学生でオネショをする子は、機能的な問題がない限り、精神的疾患にまでこじれている可能性がある。

付帯的な意見としては以下。
・健康正常に育っている子の当たり前の姿を、当時のメンバーはあまりに知らなすぎたのではないか。
・子どもを育てるという事が、あまりにも雑に「ほったらかしにしている方が良い」的に、やられていたような気がする。

ざっと20年以上前の、ヤマギシ学育のオネショ対処の実態が一般の幼児・小学生のそれとどの程度隔たりがあったか否かについて、ちょっと私には調べようがない。ただ通常より多すぎたとすれば、その環境要因や参画する以前の親子関係まで関わってくるように思う。それでもオネショ研自体の考え方については、わずかな記憶をもとにでも推測してみる必要を感じる。

やはり体罰は最後の手段というより、あってはならないものという前提があったはずである。その上で、子どもの自発的な意志を育てるために「けんさん」が企図されたのではないか。その前提として①オネショ自体は不都合かもしれないが、善悪の問題ではない。②あくまで子どもの自発性を前提にどうしたらいいか考えてもらう。③係と親との個別的な話し合いは、当時からなかったのかどうか。④羞恥心の問題は、おそらく一体理念ないし、ある種の閉塞環境からから、大人にはあまり意識がなかった。

それでも解決不可能な場合について、精神医療的な対処の観点はなかったし、ついつい体罰・見せしめの方向に突き進んだと思う。それが私に判明するまで(2013年)、私にはオネショ研への長い思い入れがあった。これこそ「けんさん学育」のひな型ではないのか、という。いうまでもなく私には、山岸さんの『子ども研鑽会資料』研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません・・・〉の考え方の小学生健康生活版に思っていたのである。

それが上記の地方実顕地での古い学園だよりに注目した理由だった。昔は素晴らしい取り組みがなされていたんだ、という思い入れで。しかしそれは、もっと大きな新しい学理的視点からいえば、錯覚だったと判明したことになる。残念ではあるが、真相(というか他説もあるかもしれないが)に触れて長い間の思い込みが払拭できたようで、とてもすっきりしている。ただ本来の「けんさん」の真実については従来通り留保する。

それが可能だったのは旧友からの指摘と現場も含む資料情報が必須だった。これまでもそれがなければ継続できなかった。改めてありがたいと思う。やはり私などが抱えてきた問題意識は絶対ひとりでの解明は無理だというしかない。そのために私の役割としては、こういうHP、その他のような場を提供し続けることにあると思う。内容はたとえ拙くとも、あるいは間違いや不審があっても、かえってそれが論議され究明のきっかけになる。ただでさえ問題への沈黙の長さは、そのまま問題の不在になってしまう現実の厳しさを思えばこそ。

2017/1/16





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29幼年部再考 ④幼育環境―時代からの影響

 

前回鈴木秀男「幼時体験」の論考の大筋から外れないよう、何とか5歳児までの射程を縮めたいと考えてきた。ただこの書に限らないが、やはり幼児期といっても幼年後期(45歳)となると記述が薄く大雑把になる。それは当然のことで、やはり母子密着ないし母子<近着>の0~2歳までが、ヒトにとって最重要かつ激変の時期だからであろう。

それでもその認識からなんといっても残るのは、〈乳児期の体験はそのまま「心の核」に保存されていて、成長後の人間を支配する面〉があるという示唆と、その時期の母子関係がのちの他者との「関係の原型」になるという指摘である。当然このことは5歳児にもかかわるだけでなく、人間一生にも通じるという指摘は根源的である。

このことについて論考(26)に取り上げた吉本隆明さんは、少々素人っぽいが明解な指摘を残している。

「だからその時期の母子関係がよかったら、大きくなってからいきなり人を刺すとか小さな子を殺すとか、親を刺し殺すとか、そういう少年少女にはけっしてならない。そう確信して疑わない。性格形成の大部分は乳児期・幼児期で終わるといっても同じことだ。性格形成の七割から八割まではここで終わると見てよいとおもう。」(『家族のゆくえ』)

アメリカ式育児の功罪

ただその中でも時代環境というものの大きさは、やはりたいへんなものだったようだ。そのことはまずアメリカの文化人類学者であるルース・べネディクトの、大戦中の日本人への優れた観察によっても知られる。その中で、べネディクトはアメリカ人の育児法と対比させながら、日本人の育児法について述べている。

「生まれてからの3日間は、嬰児は授乳されない。それは日本人は、ほんとうの乳が出るまで待つからである。その後は嬰児は、いつでも時を選ばず、乳を飲むために、もしくはおもちゃにして楽しむために、乳房をふくむことをゆるされる。母親の方もまた子どもに乳を与えることを楽しみにしている。日本人は授乳は女の最も大きな生理的快楽の一つであると信じている。」(『菊と刀』)

それをおそらく私など1940年代前半に出生した人々はこのように授乳されて育った。しかし戦後日本はこれとはまったく異なるアメリカ式育児法の大奔流に流され、〈授乳を楽しむ〉ゆとりがほとんど失われた。いわゆる育児書なしの育児が成り立たなくなる。いうまでもなく定時授乳、単独就寝(添い寝否定)、早期離乳などの規律的な育児法が大勢となったからである。そのことが1950年前後以降に出生した私らの下の世代の生育に、どのような影響を残したのか興味深いが、今の私には詳細は不明である。

そのバイブルのような役割を果たした『スポック博士の育児書』1946年)は、のちには行き過ぎの自覚もあったらしく何度か改訂されてきている。また、それはこの鈴木さんや吉本さんもいわゆる「日本的育児の大切さ」を指摘せざるをえない内容だったのであろう。とはいえ、アメリカ式は戦後日本の近代化の流れ、女性就労、都市化、核家族化の必要からも圧倒的に受容されてきたことを否定できない。

孤独な母親の子育てと早期教育・ファミコンなど

その後の日本の子ども養育環境の変化については、田中喜美子さんによれば以下のようであった。

〈六〇年代から八〇年代にかけて、私たちの国で基本的に増えたのは「働く」母ではなく、「働かない」母だったのです。そしてこの変化に伴って、子どもたちのこれまでにない病理現象がジリジリ増えてきたのです。〉『いじめられっ子も親のせい!?』1996年)

 これは少々意外の感もあるが、統計的には1960年代以降の経済の高度成長の15年間、当然にも全体としての雇用女性は増加している。ところがその内容には劇的な変化がある。すなわちその5割強を占めていた未婚雇用女性は3割に減少し、逆に既婚女性が3割から5割台に増えているのである。そのことが当時増加しつつあった少年非行と短絡させられ、「母親は家に帰れ」という主張の根拠になった。

それについて田中さんは、「子育ての恐ろしいところは、子どもが思春期にならないと、その結果が見えてこないということです。思春期になって子どもが手に負えなくなるとすれば、それは子どもが生まれたゼロ歳児のときからの子育てのツケが回ってきた、ということなのです」と反論する。いいかえれば、その増加した就労既婚女性が若い子育ての時期には、実はこれまでの「働く母」の多くが夫一人に養われる「専業主婦」になって、家事育児に集中できるようになっていたのである。

しかしその可能になった専業主婦としての子育ての現実は、別の意味で過酷なものだった。「家庭には、母親と赤ん坊以外に何一つありません。実家がすぐそばにあるなどという恵まれた人以外、母親は孤独の中で子育てを抱え込んでしまうのです」(同上)。

そこから当然にも1985年設立の幼年部の時代背景とも接点ができてくる。というのは田中さんのこの著作の中に、実は他の手記とも併せて幼年部の係と親の手記も掲載されているのである。それらは直接幼年部自体の記述ではなく、当時の社会の育児環境を説明する資料としてであった。思い出すのは、その著書以前から田中さんは幼年部に関心を持たれており、私も一度田中さんの事務所でお会いしたことがある。

幼年部との時代的接点

そこでは3人の文章が取り上げられている。

①幼年部世話係Iさんが以前幼稚園で勤務されていた時期の、「へこんでいるところはひっぱりださないとと思い・・・出来ていないところを無理につついて引き上げようとして」きたという姿勢だったこと(『ヤマギシズム学園の子どもたち』より引用)、

②早期教育の一環として2歳半からの各幼児教室への参加と「有名小学校に多数合格」を謳っている幼稚園入学、そのうちわが子の「自己中心的な性格、わがまま」に手に負えなくなってきたこと(Kさん、『ほうれん草は緑の海』より引用)

ところが③は意外にも学校現場の現実を通して幼年部評価がありありと紹介される内容になっていた。

子どもが幼年部出発後、地域の小学校で出会った一コマを親が書いている。

〈(クラスの級友が、一輪車に乗れるようになったことがうれしかったので報告すると、まわりの子どもらの反応が変だった、というわが子の疑問に)「そう」と言ったっきり何も言えなかった。感じたことを感じたままに言って、通じないどころか蔑視されてしまう現実に遭遇してしまったのだから。幼年部の仲間たちと共に育ち合ってきた中身とは、はっきりと異なる群れがあることを体で知った出来事だったと思う。〉(Nさん、同上)

それに続いて田中さんは、〈この文章は、子どもたちが互いに、「〇ちゃんが、何々できるようになった!」と喜び合う群れのなかから、友達の喜びを妬み、足を引っ張り合い、おとしめ合う小学校に移し植えられた子どもの戸惑いをみごとに写し出しています〉と評価されているのである。

これを読んだ時の当時の私は、おそらく小躍りしていたであろう。幼年部の評価といってもこれまではいわば会員情報等の身内内のものであり、公的かつ堅実で知られる「主婦の友」社の出版物の中で、ヤマギシ学園関連の記述が載ることは初めてだったような気がする。

「群れ」の喪失と田中喜美子さんのメッセージ

やはり幼年部の理想は、子どもらの心に宿っていたのだ、と思う。私には全体的なことは解らないが、こういう育ちの核心的な部分は、かなりの子に根付いていたと信じたい。どちらかといえば幼年部全体としてマイナス評価に傾いていた私としても、この部分は私の想定内に属する。それは論考(26)で述べたように、「その教育(ないし学育)上の肯定評価を、少しは留保する」「いわゆる<幼年部効果>というものがなかったとはいわない」という微妙な表現に託している。そこには母子分離トラウマの危惧、その<効果>の継続性への疑問、参画手段等々のマイナス要素が絡んでくるからである。

ただそれ以前に、私は当時田中さんがその著に託した、時代的な要請からくるメッセージに着目する。

四、五歳という年齢は、異年齢集団のなかで、泣いたり、泣かされたりしながら、それが「栄養」にこそなれ、人格的な傷にならない人生唯一の貴重な時期(藤原義隆『子どもの生活リズム』大月書店〉と言われていますが、それは真実です。いま泣いたカラスがもう笑った、と言われるように、子どもの心は日々新たなのです。その時期に群れのなかで育つ体験を奪われ、軽いいじめ・いじめられも含めて、子どもが育つために絶対に必要な遊びの体験のないままに、塾に、テレビに、ファミコンにと日を送っている子どもたち〉

上の傍線部は、私にとっては重大な指摘である。それはずっと探していた理論的根拠だったからである。当時ももちろんそう思ったであろうが、おそらくそれを読んだ97、8年頃というのは、マスコミの非難攻勢にあおられ子育て講座等で打ち出すどころでなかったと思う。今改めてそのさらなる元となる学理を探しているが見いだせない。

また、その他にはちょっと見ない「群れ」という言葉を頻繁に使う田中さんには、はっきりと次のような構想があった。

〈「自然という教科書」の大きな力と、異年齢集団の仲間が、子どもたちの「生きる力」を伸ばす恵みは計り知れません。・・・個人としての親はどんなに努力しても、自然の代わりも、子ども仲間の代わりもできません。そこで必要なのはどうしても社会の力なのです。〉

私のなかには瞬きしたくなるような時系列上の混沌がある。まさにかつて地域に子ども社会を生み出すために楽園村運動があったはずであった。それがなぜ本筋から逸脱していったのか? そしてあれから20年経った現実の子どもの社会は、子どもらの「いじめによる自死」という悲惨な状況を生み出している。

そしてこの田中さんの「『いじめられっ子も親のせい!?』は、そのタイトルにあるように、元々はそのいじめへの緊急提案として上梓されたものであった。そのねらいは根本的にはちょとしたいじめぐらいではびくともしない「生きる力」を持った子どもを育てることにあった。そのことについての重大性を感じながら、今の私はそれについて言うべきことばがない。

2017/1/8





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(2幼年部再考への足がかり ③「離す」「離れる」の原型  

私が手にしたのは偶然かもしれないが、鈴木秀男「幼時体験」(1979年刊)だった。因縁めいているが、ずっと私の本棚で眠っていたもので傍線も入り、一度読んだ形跡がある。

この著者鈴木さんは、もともと内科医だったがたまたま大人の気管支喘息患者について調べたとき、その患者の乳幼児期に母親が死亡、あるいは母親代理者に育てられたケースが少なくなかった。またそうでなくとも、いわゆる過保護的、支配的ないしは拒否的といってよいような母親が多かったという。それから鈴木さんは育児の分野で研究をはじめ、ほぼ10年かけて乳幼時期の各論を網羅したこの書を著す。1979年といえばもう古いかもしれないが、幼年部発足の1985年に近い。

その始源「体験」

各所どれも取り上げたくなるが、私の方で随意に、幼年部関連で重要と思える部分から列記していく。とはいえ以下の文は著者のいう「はじめ一体であったものが、二つに分けられる」という始源(ないし呼吸の始まり)の説明であり、掲載しないわけにはいかない。

〈分娩で胎外に出された新生児は、外気に触れると同時に、肺による呼吸を始める。それまでの過程は、いわば人間の生涯で最大の生理的激変だといっていい。分娩が開始されると子宮の収縮によって、胎盤から胎児へ向かう血液の流れが断続的になる。それで、胎児の血液中の酸素が減って二酸化炭素が増え、血液が酸性に傾いて胎児が仮死状態に陥る。それが刺激になって第1呼吸が始める。新生児死亡の原因として、呼吸不全が第1位に挙げられている事実を考え合わせると、この最初の呼吸運動の調整は、新生児がまず乗りこえなければならない難関だということになる。〉

私自身もヒトとしてこの過程を絶対に体験(?)しているはずであって、だから今日がある。途方もないすざまじい話だと思うものの、熟読玩味してそのイメージを構成してみるしかない。しかしずっと不可解なものが残る。そのうちどうか解ったらいいのか、どう感じたらいいのかわからない気がしてくる。

「体験」というが、まるで全身麻酔後にこうでしたよと説明を聞くようなものである。このように書かれ、言われ、伝えられてきているのである。しかも「人間の生涯で最大の生理的激変」とまで言われている。よく精子や卵子の記憶まで遡るような話もないわけではないが、そんなのまるで感情移入は無理である。それに近いが、だれだったか「産湯の桶の木目まで覚えている」という御仁もおられるそうだ。これだとまだ少しはリアリテイーもありそうだけど。

せめてこういう事象を専門に教えられ、学んできた人たちは、どんなふうに解してきているのか知りたいとは思う。皆さん優秀で、「学理というものはそんなもんで、そうなってある」としか言いようがないと納得されてこられたのか。せめて神・仏の分野を超えればそうなるしかないから、もう死に近いいい年こいて、それを不思議がる方がどうかしてるのかもしれん。

呼吸における吸気と呼気

それでその「呼吸」のテーマに移る。

〈リップルは、このようにして開始される新生児の呼吸は、一見何の支障もなく行われているように見えて、実際は非常に不安定だといっている。それには、生まれてからの肺の拡張が徐々にしか進まない、と言われていることが関係しているかもしれない。リップルはさらに、早くて浅い新生児の呼吸を詳細に観察すると、吸気より呼気の方が長引いているとともに、泣くことが激しい呼気から成り立っていることがわかる、とも言っている。・・・・・・では、何が乳児の胸郭の弛緩を妨げるのかというと、心的緊張以外にないのである。それは大人でも同じであって、「息詰まるような」「息を殺す」などという言葉が、強い心的緊張をあらわすことを考えてみればわかると思う。フロイドは、「分娩時の不安体験」に触れながら「不安」という言葉は、語源的には「呼吸困難」という意味を持っていると述べている〉(同上)

そこで当然母親の役割が登場する。

〈母親が世話をするために身体に触れると、新生児の浅くて速い呼吸は、もっと深い呼吸に変わる。また、そのことが、体内及び体外の環境の変化に応じて、呼吸が自動的に調節される体制を作るのに役立つ〉という。それは〈安心することによって身体(胸郭)の緊張が取れるからである〉。

そこから吸乳のテーマに入っていくのだが、最初は呼吸につながる反射的なものらしい(吸飲反射)。〈しかも吸乳は、単なる接触ではなく、生命の維持に不可欠な食物をとるための行為であり、それがそのまま母親を確かめる行為になっているところに、重要な意味が隠されているのである〉という。

そこから戦後大流行したアメリカ式の定時、定量の授乳法や、母乳か人工栄養かの問題が出てきて興味深いが、次回に譲りたい。

知覚の発達による母親との距離感

次いで授乳に伴う「視覚」(知覚の重要な要素)に触れる。というのはほぼ生後2か月後、授乳に伴ってまず母親の乳房が、次いでその顔が視覚に入ってくる。もちろんそれもはじめは単なる像にしか過ぎないが、くり返しによって次第にその切実な意味・必要が了解される。

〈子どもは母親を視覚によってとらえることができるようになると、母親との関係にある変化が起こってくる。子どもは最初、直接触れることによって母親を確かめて安堵を覚えるのであるが、視覚が加わってくると、その姿を見ただけで安心するようになる。つまり、子どもは母親から空間的に少し離れても不安を持たなくなる。それは母親と子どもがある距離をとることができるようになるということで、それ自体母親からの独立の開始を意味している。この最初の直接接触の段階で母親に不安を持った子どもは、母親に距離を置くことができず、いつまでも直設接触の関係に固執すると考えられる。〉

さらにそこに「聴覚」の自覚も生まれてくる。〈直接触れてみることも、眼で見ることもできない音というものは、知覚の対象としては最も捉えにくいもの〉だが、それも〈母親の声をほんとうに聞き分けられるようになってから、それ以外の音を捉えられるようになる〉という。

 そこからさらに一足飛びに「離乳」の問題に入るが、社会的な早期離乳の傾向に対して

〈育児学者のルロンは、離乳は、単に母乳を止めたり、哺乳瓶の使用を中止することではなく、母親からの独立を意味するところに問題があり、したがって離乳の難しさは、それを母と子の人間関係から考えねばならない点にある、といっている。「母親からの独立」といっても、離乳はすぐに自分で食べることを意味するわけでなく、母親にいちいち食べさせてもらうことに変わりがないのである。だから離乳は食べることの独立ではなくて、吸乳による母親との直接的な心的接触が終わって、間接的な接触に移行することを指していると考えねばならない〉としている。

独立の過程とその型「心の核」の保存

ここでようやく今回の論点のまとめとその特筆点に入っていく。引用ばかり続くが、私の実力の限界であって申し訳ない。前回紹介した以下の文に入る。

〈人間の「心の世界」というものは、自分自身を含めた対象を、どこまでも正確にとらえられるように発達していくものと仮定すると、…対象に対して空間的な距離を取ることを覚えなければならない。したがって子どもが視覚や聴覚によって母親をとらえられるようになることは、その最初の体験だといえよう。そのばあい、母子関係がどれくらい安定したものであるかによって、母親とどれだけ距離をとれるかが決まるのである。母親から少し離れただけでも「置き去り」にされるのではないかという不安を克服できず、母親との空間的な距離をとることができない子どもは、自分を含めたすべての対象にたいして、距離をとれないまま成長することになる。〉

〈子どもは、生まれ落ちてから一年以上の間、ほとんど母親だけを相手にして生活するようなものだが、その間にふたりの間の関係の「型」がかたち作られる。この関係の「型」は、その後子どもが母親以外の人間と関係を持つばあいの「原型」になる、と考えられる。この期間に子どもが、その世話を受けなければ生きられない母親にたいして、基本的に安心感を持つか不安感を持つかによって、母親以外の人間にたいして安心感を持つか不安感を持つかが決まる。つまり関係の意識の「原型」は、乳児期の未分化な心の世界に属しているのである。〉

そして最後に紹介するが、これは育児書なしの育児が考えられない時代に入ってきて、いわゆる母性本能の自然性をどう考えるかの問題になる。

〈生まれるとすぐ親から離されて人間に育てられた動物は、子どもを生んでも育てようとはしないという。またリップルは、出産直後に母親が子どもをどう愛撫するかをみると、母親自身がどういうふうに育てられたかがわかるといっている。とすると、自然に備わっているとみなされる母性本能でさえ、生まれてからの体験に根拠を置いていると考えねばならない。そのことは、同時に、乳児期の体験はそのまま「心の核」に保存されていて、成長後の人間を支配する面のあることを示唆している。〉(続く)

2016/12/25








2016/12/18

 

(27)幼年部  その再考への足がかり ②乳幼時体験

あくまでも幼年部の意味を考えている。それは私の中ですでにガタ崩れであるが、ほんとうにそうなのか? それならそれで丁重に葬ってやりたいのだ。それは私のかつての夢の決済であるが、その心中は失敗を失敗として明白に意味づけることにある。それが何らなされず隠蔽され、忘却のまま放置されるならば、それこそ最悪なことだろう。

ところで幼年部の特性は、なんといってもおそらく世界中どこにも類例のない(?)ことを断行したことにある。出発点でその社会実験的な明白な自覚と構想・準備も乏しいままに。しかしだからこそ、逆に残された結果は貴重極まりない。残念ながら当時そのことも私の念頭にはなかった。今や残骸ばかり(どころかそれすらない)とは思うものの、しかし幼年部の企図に加わった多くの親や子どもらの記憶の中に、いまだ失われないものがあると信じる。

ところでその類例のないことが断行されたのは、子どもの生長への強い期待からであった。私は当初おこがましくも、この子どもらの1年の体験は、幼少年期のみならず一生を貫く宝であり、「おふくろの味」が一生続くように永続的なものと考えていた。しかし

「その<成果>を一応表面的に確認できるのは、親が参画せず地域に戻った子どもらの場合、せいぜい1,2年のことではなかろうか。もちろんこれは生活習慣や健康面の育成の部分、さらに物事への意欲、対人的社会性等であって、精神の深層領域で何が刻印されたのかはよく解らない。」(「ジッケンチ3、ジッケンチ学育外論」)

現在の私がこの中で着目するのは「精神の深層領域で何が刻印されたのか」である。

このテーマで5歳児自体について参考になる所論はちょっと見当たらないが、実はその前段としての乳・幼児期については多くの所論がある。それは子どもらの幼時体験について、児童心理、精神分析などの研究を通して、例えば「愛着障害」として膨大に取り上げられている。その焦点となるのは、母親(あるいは母親代理者)と乳幼児との関係である。したがって私の念頭にある、五歳時の親ばなれ、というより「子ばなし」というものは、そういう障害につながらなかったのかどうかという心配は、ちょっとおあずけ状態になる。

この中で最も耳目を引きそうで解りやすいのは、夏目漱石、太宰治、三島由紀夫等の著名人の幼時体験のことである。日本文学に関心が強い人々にはよく知られていることだろうが、例えば三島由紀夫は生まれるとすぐ母親から引き離され祖母のところで13歳まで過ごす。太宰治も津島家の11人兄弟の10番目。生まれて間もなく母親から引き離されて乳母代わりの人に養育されている。また夏目漱石も生後間もなく里子、次いで養子に出されている。

だからこそ素晴らしい作品が書けたんだなどという感想はやはり短絡的だろう。長いこと文芸評論にも携わってきた吉本隆明氏の解説によれば

「この人たちの乳幼児期はとてもよくなかったなとおもえる。彼らはそれをバネにして後世に残るとてもいい作品を書いているわけだ。こころの問題としていえば乳幼児期の体験はかれらのこころに大きな傷を残しているといえる。その優れた文学作品は、彼らが刻苦勉励によってつくり上げた人工の壁だったが、それでも太宰治や三島由紀夫の壁は乳幼児期の不幸な育ち方によって、津波のように越えられ、壊されたともいえる。」(吉本隆明「家族のゆくえ」2006年刊、文庫版は光文社)

改めて彼らの作品を読み返してみたくもなるが、私の当面の問題意識からすれば彼らの場合その乳幼時体験によって「精神の深層領域で」明らかに刻印されたものがあったということになる。それは残念がらマイナス面である。ずっと潜在されていてある時期から何らかの心身の異常、障害の兆候として意識される。ただ、どこでどうなってそうなるのか当人にはまったくわからない。親たちからの伝聞その他によって幼児期に何かあったのではと推測危惧する。そして医師や専門家の分析によっておぼろげながらわかってくるものらしい。

吉本さんも上の著名人の例も含めて「母親のこころが刷り込まれる」(第1章「母と子の親和力」)としてその重要性を指摘する。印象的な記述を少し抜いておく。

〈もちろんいいことばかりが刷り込まれるわけではない。母親が夫婦喧嘩してむしゃくしゃしたあげく、「こんな子なんか産むんじゃなかった」と思ったとしたら、そうした感情も刷り込まれる。・・・・・・当然、いまの若い女性たちの「出産なんてしたくない」というおもいや、「子どもの世話なんかしていたら一年間のブランクができてしまう」といったあせりも乳児のこころに刷り込まれていく。〉

これは乳児期以前の胎児の頃から、「刷り込み」が始まるというから、母親は大変だ。ここからおそらく自分を責めたり、後悔したりするお母さんや、元お母さんが多くおられることだろう。吉本さんも「これはお説教の意味は少しもない。事実の意味で触れている」として、以下のように述べているのが意味深長に感じた。

「でも人間は胎児、乳児に母親としてどんな影響を与えるかは、母親だけのせいでもなければ、家族のせいだけでもない。またその時期、どんな家庭であるのかも予見できるわけではない。ただ親と子を中心に平静に切り開いてゆけばいいことだ。」

晩年の吉本さんはかつてのような鋭鋒はなく、文章も談話調になっていることもあってわかりやすい。とはいえこの「刷り込み」に関していえば、写真撮影のようなものでなく、親子間の相互関係というものが考えられるであろう。また5歳児のことはまだ遠いにしても、その相互関係の中で5歳(幼年後期)につながる基本的な生命の営みもあったはずだと思う。そこでもう少し専門的な本を探してみると、以下のような記述を見つけた。

〈したがって子どもが視覚や聴覚によって母親をとらえられるようになることは、その最初の体験だといえよう。そのばあい、母子関係がどれくらい安定したものであるかによって、母親とどれだけ距離をとれるかが決まるのである。母親から少し離れただけでも「置き去り」にされるのではないかという不安を克服できず、母親との空間的な距離をとることができない子どもは、自分を含めたすべての対象のたいして、距離をとれないまま成長することになる。〉(鈴木秀男「幼時体験」北洋社1979年刊)

この「置き去り」は幼年部<危惧関連用語>でもあり、さらにこの認識はそれ以前の「吸乳」「離乳」の営みともつながっている。それは「離す」「離れる」テーマの原型でもある。(続く)

2016/12/11








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(26)幼年部とは何だったのか 再考への足がかり

幼年部は私にとって十字架のようなものであるらしい。設立自体の決断・決定は本庁当局によるものであったが、私はその設立、内容表現、拡大に全面的に関わってきた。今でも時折伏し目で目を通すが、「愛児へのおくりもの」のなかに、私がある。私でなければ書けなかった私がある。ウソは書いたつもりはない。今読んでみてもある力がある。善意と希望と理想が溢れている。

しかしムラ離脱以降、どこか大筋の考え方でまちがっているのではないかと感じてきた。ということは細部の真実もどこか歪んでくるはずだ。幼年部は、今の私にはなんの関係もないはずである。しかしその悶々の模索は停めることができない。ただおそらく死が向こうから着実に近づいてきているという年齢の自覚から、この模索はあの世までも持ち込むわけにはいかないという気持ちになってきた。この十字架は背負っていくしかない。

そのまちがいの第1は、当時の幼年部はジッケンチを拡大する格好の手段(のひとつ)だったことである。しかしそれは結果からみて負の拡大であった。それによって参画してきた多くの参画者とその子らの未来に傷を負わせてきたことはまちがいないからである。またそれはジッケンチ<権力>化への、私の<貢献>にも属することであった。

したがって以前からも、そして現在の「反転する理想」の究明によっても、私はジッケンチのみならず、ガクイク・ガクエンを否定の対象とせざるをえなかった。否定とは禍々しいが、要はそこに未来がないということである。それでも現在、その否定の範疇に入れられないものもないではない。それは理念上の「無所有」であり、「学育」であり、「研鑽」になるだろう。

ただそうはいっても幼年部には少々微妙な要素が残る。それは運動・拡大の面ではなく、その教育(ないし学育)上の意味である。そのことを今も私は確定できないままでいる。その思いを私は「ジッケンチとは何だったのか3、ジッケンチ学育外論」(2010/12)において以下のように記述した。

「現在の私は、幼年部は参画者の子弟にとってはそれなりに可能かもしれないが、必須的に必要かどうかはわからない。一般の子どもらについては(親の参画が前提でない限り)幼年楽園村で充分だと考えている。」

それはいうまでもなく、いくつかの問題状況を検討しての暫定的な結論である。要約するとそれは①幼年部を出た直後の一時的な「赤ちゃん返り」の存在、②ドキュメンタリー「アヒルの子」主人公の親に「捨てられた」という意識、③ジッケンチの優位性を前提にした親への対処、④<大部屋育児>の問題、等の危惧からなる。

そしてその暫定的な結論を前に私はずっと立ち止まったままだった。「可能かもしれないが、必要性は不明だ」というのだ。それはその教育(ないし学育)上の肯定評価を、少しは留保するものの基本的には肯定できないという趣旨である。

そのことをさらに敷衍すれば、「あそこまでやる必要があったのか?」という疑問に集約される。先述の評価という観点からすれば、いわゆる<幼年部効果>というものがなかったとはいわない。でなければあれだけの期間続くはずがない。しかしそれは幼年部出発後の長期までは検証されていない。そしてその部分は「幼年楽園村で充分」だと考え、今もそう思う。幼年部のあれだけの自然・農業環境、仲間集団、有能なスタッフ、そして何よりもその期間の長さにもかかわらず?

あくまで私の心配だが、やはり幼年部は「親離れ」のリスクが大きすぎると思う。まだしも幼年楽園村の方が、リスクなしに所定の<効果>を実現できたと考えられるのである。というより、これはリスクなどというような経営的観点でなく、親存在にかかわる本質的な認識に欠如した部分があったのではないか、という気がしてきたのである。

そのことをつきつめていけば幼年部の企ては、「子ばなし」という架空の理念が、生み出した幻影の実体化ではなかったのかと推測する。もちろん今まで私はそのようなことを思いつきもしなかった。まさに動物の様々なエピソードに学理的な粉飾をこらしながら、<ヤマギシ子離し教>を信じてきた。しかし今こそ(むちゃくちゃ遅すぎる!)「子ばなし、親ばなれ」のテーマをもっと原理的に探り直してみたいのである。

このところ、それについての認識の糸口が、いまだ直観に過ぎないがちらつき始めている。やはり育児学、発達心理学、あるいは家族論等に、いまだ表面的だが触れてみると、どうもそんなチャチな話ではなさそうである。「はじめ一体であったものが二つに分けられる」という微妙深遠な出来事から母子関係が始まるが、「親ばなれ」あるいは「学育(まなびそだつ)」も、そこから捉え直してみる必要を痛感する。

そこからの、ながーいスパンの中の人間発達段階として幼児期に着目し、そこに幼年部を置き直してみた時に何が観えてくるのか。それはおそらく幼年部なるものの真の存在意義を無にするかもしれない。さらにそれは「対幻想」の表れとしての家族―親子の本質理解まで進むだろうという予感がある。

さらに実践面でいえばNHKプロフェッショナル 仕事の流儀」の中での介護施設経営者・加藤さんのことが私には衝撃的に入っている。「なんに自信が持てるのか、何が楽しいことなのか、捜している。だれもいっしょじゃないか。認知症の人だって自分となにがちがうのか」と彼は自分の思いを吐露する。その認知症老と経営者との間の決定的な対等感のことである(本ページ右手「随想13」参照)。

それは実親と世話係(仮親)との対等一体の親愛関係を確立できたとは思えない幼年部運営にもかかわる。その象徴は、あの<大部屋育児>に表れている。一人の係でどれくらいの子どもを見れるかという観点、その便益性、経済性もある程度必要だろうが、ひとりひとりの子の、その心に触れあうには、親の育児歴にも気にかけた実親との心との交流が不可欠だったのではないか。はたして<親の子離しの邪魔になる>が先行しなかったのかどうか。

私は幼年部1期生から村内メンバーの里親をつけることにこだわってきた。それが不要とのちにどこかで決められたときの落胆と危惧を記憶する。その後もいくつかの不条理感もあったが、あえて物申す的な行動には出たことはなかった。基本的には、大過はないとして<上>を信頼してきたのである。その無知無能! かやさんコミックに驚愕したのと同じように、その間何が進行していたのかを想わざるをえない。

近年「里親」というものを介した農漁村への受け入れが、各所にみられるようになってきている。それらはあの重っ苦しい思想・理念が介在しないだけ、里親の思いの純真性がすがすがしい。

以降断続的になろうが、この直感を少しずつ展開、記述していくことになる。もちろん他のテーマも入れながら。(一部改訂)

2016/12/3





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(25)「生存戦略」としての年金のこと     

 つい先日、年金受給資格を納付25年から10年に短縮する「改正法」が国会全会一致で成立。無年金者を救済するというのが主目的らしい。加入期間が10年で支給が月約1万6千円と低い。他方同時に年金給付の全体的抑制策も審議されており、年金をめぐる情勢は相変わらずウソ寒い。

 私も受給老人の一人として決して満足しているわけではないが、ナントカカントカこんなもんかとやりくりしている。ところが若者、子どもらの段階になればもっとずっと厳しい。16千円なんてまあ何の足しになるのやら、もっと高額をねらうなら保険料支払いをずっと継続していくしかない。現在でも40年満額で65千円、受給開始25年で4万ちょっと。この4万ちょっとというのは、私らにはなじみ深い。


 私は2000年前後の<ムラ出>後、これからの生き方の根底に「生存戦略」という意識を抱いた。「戦略」とはいささか剣呑だが、生物学上でも使われている用語らしいのであえて使う。ようやっとありついた年休もない薄給の施設警備員の仕事、ムラからもらったとうてい<退職金レベル>にならない生活援助金、そして記載漏れの目立つ年金等々から。ともかくまず「生き延びる」ということが生きる最大の目標になった。当時私は自分が「難民」だという意識は極めて自然な感覚だった。自ら選んだとはいえるが、強いられてでもあった。それをあまりに長く引きずっていたために、のちにFBの諸氏からひんしゅくを買ったこともある。

 この「生存戦略」といっても何一つ具体的なものはなかった。ただ心意気だけである。しかしできることは何でもやった。結果としていえることだが、
①マンション夫婦住込み管理員をやり続けた、家賃はタダ、
②年齢で住込み不可能になって以降は県営住宅に入居した、家賃は3万、
③マンション管理員はねばって最長72歳まで続け、おかげで10年の厚生年金がついた、
④かみさんの年金4万の底上げをねらって、保険料納付終了の60歳以降も任意保険料を5年間払い続けた。少額でも受給は月55千円までこぎつけた、
⑤私の年金は70歳からの「繰り下げ」で受給した。私の年齢以前は制度不備とかで率が特に高かったこともある。元が取れるかどうかは、簡単に死なない方に賭けた。
⑥もちろん現在もかみさんは終日介護ヘルパー、私は早朝3時間パートで働いている、

ひょっとしたら何らかの参考になるかもしれないと思い記してみた。

 昨年秋<ムラ出>の旧友がそろって交流した際、何かのついでに私は自分の年金のことを話したら、「ずいぶん多いね」という反応があった。私もへーそうなのと思い返した。
 おそらくこういうことだったと思う。私は自分のことを社会階層的にはずっと「シルバープア」という位置で捉え、HP等でも書いてきた。ところが実際年金については、国民(基礎)年金のほか先述の厚生年金、さらには教師時代の共済年金もあった。他方、その旧友たちはほとんど若い20代のヤマギシ参画であって、おそらく国民年金しかなかったのであろう。

 このことはかなり昔に、仲間内で生活援助金の増額が話題になった頃、厚生年金のような2階部分をG本庁に要請するという案を聞いたことがあった。それ以来気になっていたことが蘇ったのである。なるほど私の年金も参画時の国民年金期間が間に入っていて、若年の就職時からずっと継続して厚生年金部分を積み立ててきた一般の人から見れば、<プア>かもしれない。しかし旧友たちはおそらくそれ以下の以下、月4万台の年金を受け取ってきていると思う(他に少しでも2階部分がつけばいいが)。

 今元気で働けているうちはいいけれど、それができなくなったらどうするか? 何とも済まない気もするが、それ以上はどうしていいかわからないまま現在に至っている。若い志の帰結がいま・・・・・・という詠嘆を反芻しながら。
 その済まないという気持ちは若者、子どもらのことにもつながっていて、今国会の「改正法」で一挙にリアルになってきたということになる。何とも今さらながらの無力な事実確認に過ぎないが、黙ってもおれない気持でこれを書いている。

もっとも「生き延びる」ということは経済上の課題だけでなく、精神上(自己興味)、身体上(長生き)の課題も含まれていることは充分承知しているつもりである。

2016/11/22






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(24)最新SFから 「真心の<実体化>」の恐怖 

たまたま新聞書評SFで、三崎亜紀「メビウス・ファクトリー」(集英社)が目に留まった著者の三崎さんは私には未読だが、デビュー作『となり町戦争』(2005年)がベストセラーになって映画化されている方である。この分野はしばらく縁がなかったが、実はユートピアならぬデストピアを扱った世界的名著、ジョージ・オーウェルの『1984』からは強い感銘を受けている。当然村上春樹「1Q84」も読んでいる。

書評のタイトルはずばり「<理想>に潜む恐怖」! 舞台になっているのは、どこかの地方都市でほぼ唯一の巨大工場。住民のほとんどはその工場の社員であり、市役所の機能は会社が代行し、商店もバスも会社の傘下にある。福利厚生は行き届き、様々な互助組織がある一見理想的な環境である。しかし評者は「会社というのは、実は秘密結社ではないかと、怖くなる時がある」という感想を切り口に、以下のように紹介する。

「そんな会社を、そして町を包んでいる連帯感は、私財保有を放棄した実験的な共同農場の生活、あるいは宗教団体を思わせる」

ナニッ? と思う。この文章はバランス上どうしても「共同農場」にウエイトがかかっている。となれば普通に思い当たるのはヤマギシしかないではないか。それもあってともかく読んでみることにした。

?

最初に断っておくが、SF作品としての面白さや完成度はここでは取り上げない。私の主たる関心は、やはり現実のヤマギシを考察する上で格好の思考ツールとして、である。おあつらえ向きに構想されたこの大企業は、ヤマギシのイメージを類推させるいろんな装置を備えている。その主たるポイントを上げる。

・企業〈ME創研〉の唯一の生産物「P1」(最後まで正体は不明)に携わる社員にとって最も大事なのは、「真心」であって、速さでも正確さでもない。したがってかれらは作業員ではなく、「奉仕員」である。さらにその真心ぶりを判定する「鑑定士」なるものが重要な役割を担う。

・「労働の対価」としての給与という言い方はないが、それに当たるものを「お戻り」と言う。「心をこめてP1に奉仕したことが巡り巡って自分に戻ってくる」と捉える。しかもあるシンマイ社員の主人公が町外のブラックがかった職場にいた時の給与の2、3倍の高額になる。

・この「巡り」(メグリ)という考え方がこの工場のメインとなるもので、社員間の日常の挨拶はすべて「おめぐりさま!」になっている。

・それぞれの家庭で引っ越しその他の大きな動きがあるときは、自発的な相互扶助の仕組みとして「オタガイ」がある。「オタガイされたんだから、オタガイし返すのが当然だろ」というのが同じ主人公のセリフにある。

・町での買い物は全て「社員パス」の決済で賄われるので、現金は要らない。

・したがってほとんど町外に出る必要はないが、その場合は1週間前に「お尽くし」(総務)に申請する。

仕事や人間関係で、まさに「みんないっしょ(に)」が機能しているように見える。「所有制」や「有償労働」(お戻り)は否定されているわけではないが、その必要がないくらい生活環境は恵まれている。またその「オタガイ」に似た仕組みは、昔はヤマギシの地域会活動のメインとして、会員さんたちは機敏に動き回っていた。

?

さらに総務体制というのか、全体的な運営方針についてはどう考えられているのか。私はこれには作者のかなりの着想の妙を感じた(ひょっとしたらどこか他のSFにモデルがあるのかもしれない)。

「普通の会社だったら、会社の方針を決めるのは社長であり、株主だ。だけどME創研は、働いている従業員たちの合議で運営されているんだ。そうは言っても、一万人もいる中で、意見を言い合っても収拾がつかないだろう? だから代表者がああやって車座になって、工場の運営方針について議論するらしいんだ」

この「車座」というのは、定期ないし臨時に開催される代表者会議のようなもので、メンバーは半年に一度交代されるが、人別されないようサルやライオン、パンダなどの着ぐるみで参加する。「役職や部署のしがらみで、自由に意見を言えなくなる」のを防ぐためだという。なるほど、そうかと思う。

その内容はTVの「町民専用チャンネル」で、また広場の大型スクリーンでも放映される。自動解任制らしきものはあり、その代表者の論議は一応秘密ではない。ただそれを下支えするような従業員合議やかれらによる代表者選任過程の直接の場面表現はない。どこかで誰かがその黒幕的存在を担っていないはずはないと思うが、これも最後までよくわからない。 

さらに外との関係で象徴的な設定は、町内で視聴されるテレビ番組はみな5分遅れになっていて、おそらくその間会社にとって不都合なニュースを検閲、切り替える操作がなされているらしい。これなどまるでヤマギシの昔の<失敗>から学んだような気がするくらいである。 

いうまでもなくこれらはフィクションであって、問われるのはその構築されてきたイメージの精緻さとリアリティーである。このままで完結するユートピア的な物語も存在しうるだろう。現代の新たな<空想的社会主義>のように。しかしこれはその逆のデストピアである。

?

ところでこの町―工場の完璧とも見える体制はある<事故>をきっかけに崩壊し始める。その最初の暗示は、町に入って来たばかりの上述の主人公の奥さんの不安。

「だけどあたしは、そんな町のあり様が、どこか不自然に思えるの。この街に慣れきっちゃったら、こんな幼い頃から、この子の将来が工場で働くってことに決められちゃいそうで、それが不安なの」。

瓦解のきっかけは、生産物PIに込められた「真心」のことだった。これは意表をついているが、やはり核心をついていると納得する。あれこれの組織体制上の問題でなく、「心」の問題を焦点に置くことが、この物語の冴えたところだと思う。いうまでもなく「真心」なるものは計量不可能な分野ではあるが、その軽重にともなってそれなりの微妙な<実質>はないわけではない。まぎれもなくあの時期、ヤマギシの生産職場では「生産物に心を込める」が標語になっていたし、その心積りで私(たち)は作業に当たっていたのである。

この物語はそこをあえて誇張する。そのことで問題はより明白になりそうである。その真心ぶりを判定する「鑑定士」の存在とその作業をより具体的にイメージさせることで。鑑定士の取り組みについての会話。

「つまり鑑定士は、心の奥の、五感とは切り離された感覚を探れと言ってるんですね。あなたは今きっと、眼で見ることで『お痛め』(損傷)のあるP1を見定めようとばかりして、かえって鑑定の極意から遠ざかっているんだと思います」

「それじゃあ、どやって見分けるって言うんだよ」

「五感を遠ざけるんです」

なるほど「心を込める」という内実を、そこまで追い詰めたことはあっただろうか?

「それは傷や歪みという考え方ではないはずです。P1に込められた奉仕者の『思い』を読み取っているとしか思えません。聞くことを、触ることを、見ることを・・・・・・。すべて遠ざけたところで」

?

まさかと思いながらつい先を急ぎたくなる。そこに何かありそうに見える、そしてまた何もないわけでもない。個の思考で考えれば、それはいわゆる「真心の実体化」とでも表現しうる状態だろう。似たような発想に「理念(観念)の実体化」という表現もある。「その先に何かある」という期待といわば思考の性急さにあおられて、ふり返って精査熟考できない状態である。私もしばしばこういう状態に直面してきた(昔は「社会実験」でとどめるべきを「実態顕現」まで急進した)。

しかしその論証されない根拠不明な部分を、確信をもって断言する人々が存在し、それがそのまま町の<当たり前>になり、<信仰>にまでなってきた必然性と恐ろしさを、この物語はありありと垣間見せる。

そしてその正体があからさまになってくるのは、真心のみが込められてきたはずのP1に、何者かによって「憎しみ」が込められたことが判明して大騒動になってからである。<汚染>とその拡大、テロの想定、「心の防波堤」の呼びかけ―――そして町民大脱走が始まる。

//いうまでもないが、ここでいう<汚染>とは「心の汚染」はありうるかもしれないが、さらに健康上の障害につながる実体的な汚染という現実レベルになってしまうということ。そこから、超現代における最新科学上の粋も、直ちに宗教・信仰(特に偶像崇拝)と直通してしまう人間習性の危うさまで考えさせられてしまう。

これ以上はネタバレ云々で伏せるが、この<憎しみ>の汚染状況はかの原発事故以降の汚染状況やその混沌、場当たりな対処、帰宅困難地域の問題等を彷彿とさせる。まぎれもなくこの作品は現代日本を照射する内容を含んでおり、当然ヤマギシ的なものを超える。さらに最後に「金が要らない」背景として、金融資本の操作可能な「電子マネー」のことやこういう企業が生まれてくる他のさらなる巨大な存在まで示唆される。「P1はもっと別のものを動かすための歯車に過ぎないのではないか・・・・・・」と。

2016/11/16





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(23ラジオインタビューされたヤマギシの生活


 ここ十数年、自分の<前歴>というものを、ほとんど伏せて生きてきたと思う。
どこに住んでいたか、どんな仕事についてきたか、学歴は、等々。親しくなってきた仕事同僚の仲間にも、そういう話題になるのは自然だろうが、それとなくかわしてきた。そこからくる引け目や長い孤独感から、外向けにはどうしても弱気になりがちだった。
 それは子どもらも似たようなものだったろう。...

 ごく最近、ほぼ似たような経歴を辿った友人Kさんのラジオインタビューを拝聴することができた。その内容もあれこれ刺激的で面白かったが、まず感じたのは彼はその前歴を堂々と話していたことだった。インタビューの導入が「Kさんはヤマギシというところにいたんですってね」だったから、それに答えるというスタイルで。
 
 こういう前歴公開は、私がムラを出て初めて受けた就職試験で、世間へのためしや無知もあって何も隠さなかったことを思いださせた。それも軒並落ちてから伏せるようになってきたが、あれからいわば長い時間がたっている。このようなインタビューが今頃になって成り立つのも、時代の変化や過去の事件の亡失が影響しているのだろうかとはじめは思った。

 インタビューといっても複数の男女の掛け合いみたいな雰囲気の中へ、Kさんが導き入れられるという自然なスタイルだった。その過程でわかったのは、Kさんは、そのグループの誰かや、さらにその知人の誰かとのつながり、つまり<友だちの友だちは友だち>的なつながりで、このインタビューが生まれてきたという経緯だった。それも急なことではなく、それとなく熟してきた長くない時間のことを感じさせた。

 同時にメール等で伝わってくる、最近のKさんの行動領域のことがある。ともかく日常の仕事から、その他の領域への多面的な接触の頻繁さは、私のような<内弁慶>では想像を絶する。ともかくこういうKさんのような行動スタイルは、ちょっと私の周りでも見当たらないような気がする。

 その過程で(それ以前からも)形成されたKさんの、物怖じしない如才なさと素直な真面目さが、インタビューで充分発揮されていたと思う。それがインタビュアーたちの、怖いもの聞きたさ、先入観と好奇心が入り混じっての質問と、よく噛みあっていた。私なら今突然こういう場に引き出されたら、何をしゃべったかわからないうちに、たちまち30分の時間が経ってしまったであろう。

 全財産放棄と金の要らない暮らしのあれこれ、参画前後の夫婦間の葛藤、子どもの病気、職場替えでの豚飼育の失敗、村外の身内や世間との関係・・・・・・どの局面をとってもインタビュアーにとっては想像を絶した内容だったようで、笑いと感嘆の連続だった。「体験というものは深い」という感想もあった。逆に<われら>はすごい体験をしてきたんだなあ、とあらためて思う。

 私には<あの事件>さえなかったら、本当に世間、周囲の好奇心との噛み合わせそのままで、成長できていったろうに、という思いすら湧いた。もちろんそれは願望であって、その事件についても触れないわけにはいかない。例のかやさんコミックの紹介やオウム事件からの見直し、「閉鎖社会でのチェック機能」の重要性も当然ながら言及していた。

 最後に「得たもの、失ったもの」について問われ、「一度すべて失ってしまったという体験は大きい。元々なにもないところから始まったということでは、あとは自分でつくり上げていくしかないもの」と答えた。それが彼の現在のエネルギッシュな生活につながるのであろう。この点は私もほぼ同感で、今私がやっていることは自分にとってかつてないことで、自分のやれること、やりたいことをやっているという充実感がある。対象のちがいは自己興味のちがいというしかない。

 ともかくKさんのこの一挙は、ヤマギシ的な問題や体験と社会・世間との現時点での接点のひとつが表された、という意味でおおきなことだったと思う。

 (参照 FMあまがさき「8時だよ神さま、仏さま」hhttp://8ji-dayo.seesaa.net/
2016.10.5放送分)
2016/10/29
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(22)<権力>化への、わが<貢献> ②――自己犠牲 

当時(1980年前後)「実顕地」というものは私にとって<希望>だった。私自身がその造成に一役関わり、何とか目鼻がついてきたということももちろんそうだが、A氏という<希望の星>が存在していたことも大きい。というかA氏のそれとない私への<評価>を感じ、投げかけられた難問を必死に解いているうちに、次第にA氏が<希望>になってきたといった方がいい。

しかしこのA氏への私の(現在からの)当時の認識は、やはり甘かったといわざるをえない。はっきり言って、かなりの「錯誤」があったのではないかと思い返している。あの時点でのA氏への随順と肩入れが、しかも真剣に本気だったそのこと自体が、私自身のその後の実顕地体制、いいかえればヒエラルキー体制構築への最初の<貢献>の始まりだったのではないか、と考え始めている。

それは直接には、先回言及した自分が評価されることへの<妖しい思い入れ>」のことである。それは私の例の小説メモを最近再確認してから、A氏の私への声かけの<工作的ニュアンス>とそれへの違和感として改めて蘇ってきている。ただそこでの問題はA氏の投げかけにあるのではなく、それをどう受け止めたかの私の心情(心胆)のことである。当時、そのような評価によってしか自分を支えらえなかった私の人間的<弱点>のことが、あれこれ見えだしてくるのである。

?自発的服従による<権力>の成立

このことは何度もくりかえすが、あのかやさんコミックと娘へのわがオロカさ以降の悔恨や思索上の試行錯誤がなければ、あるいは最近のブリーモ・レーヴィや辺見庸「1937」から刺激を承けなければ、そのことに気づかなかったであろう。しかし実はこの内容のある程度は、2008年の「ジッケンチとは何だったか、Ⅰ」ですでに気づかれていた。「権力」表現も含め、あえて紹介しておく。

「“上”といっても当初はこの道の先達たちに『見守られている』という意識だった。このことはいわばジッケンチを巨大な家族のように見做していた感覚といいかえてもいいだろう。親から変わらぬ親愛の情を注がれているという感覚。ところがそれが時折間一髪で『監視されている』という意識に置き換わる。これはかなり微妙な、瞬時に刺さる小さな棘のような痛みであって、心内に秘かに留める程度のことであった。しかしこのどう評価されるのかというある種の疑心は、かなり強力なものである。比較観念が強いからという批判は当たらないわけではないが、あっさりそれを越える。」

「はっきり言おう。これこそまさに『権力』の成立といいうるものである。警察等暴力装置はないどころか、そんな物騒なものは要らない。それに代わるものとは『沿うべし』というメンバー一人一人に内部化された観念で充分だったのである。しかもおそらく九割以上のメンバーがそれを理想への実践と思い、その“自発的服従” のスタイルを受け入れたのである。
 したがってそれは権力とは見えないし、時折それがほんの一端でむき出されることもないではないが、ずっと<一体社会>の親和的・大家族的イメージのオブラートで包み込まれていた。だからこそ結果としては普通の権力と同じなのだが、もっとスムースに機能していった。どんな権力者でも垂涎するところの、世にこれほど効率的でスマートな権力はあるだろうか。」(いずれも
ジッケンチとは何だったか、Ⅰ4、批判の“ 内部化”による無意識的自己抑制)

この前後の状況について「ジッケンチとは何だったか」Ⅰ、Ⅱを含め、かなりのページを割いている。要約すれば

①いわゆるメンバー同士の横の付き合い(友人関係など)が何となく憚られるものになっていく。
②「世話係」の頂点にある部署が暗黙の指導部と化し、実質的な上意下達を恒常化する。
③研鑽会の<階層化>による格付けの問題、および専門分業化の功罪。
④世話係への「提案と調正」では、家族的私事・その他がしばしば「やめておきましょうか」になる。
⑤指導部が実質的な「自動解任」という洗礼を受けることなく、その地位を永久化する。
⑥「絶対権力は絶対的に腐敗する」といいうる諸現象。ムラ出後伝わってくる聞きたくない<噂>。

これらの過程・結果としての最大の焦点が、学育係の体罰、暴力、個別研鑽とその隠蔽であり、それこそ『反転する理想』の最大の証跡と見なさざるをえない。しかしこれらのことは充分旧知のことであり、今ではかなり忘却されつつあることも事実である。

?沈黙による第二の<貢献>

ただ私にとっての問題は、これらの動きについてはおそらくムラ離脱数年前から気づいてはいたが、私はその阻止に向けて何一つ働きかけることはなかったことである。それはなぜなのかという問いこそ、私にとって大事なことであり不可避である。これこそ結果から見える私の第2の<貢献>」になるだろう(ついでの予告になるが、私の第3の<貢献>は、幼年部等の学園拡大活動になる)。

本来ならばこれこそ第1に来るだろうが、もっともらしい説明(自己弁護)になりそうな、というか(そこまで先回りしないでも)、このことは歯切れよい語りで済むわけがない。ただそのようなものであっても、なんらかの手がかりになると思われるので、断片のままに提示しておく。

「私のなかではこの時期は、習慣的自己抑圧、停滞感、閉塞感が印象付けられていた。しかしそれは個々人の中で内向的に沈潜していたものであり、外見ではジッケンチはハレハレ社会、陽的社会とか賑々しく活性的であり、まさに“自由活動的”に見えた。私自身も一見“華々しく”拡大の集会や講演で日夜奔走していた。」

「そうなればこれも仮定のまた仮定、夢のまた夢であるが、もし私がもう少し早くこのジッケンチに絶望し、そこを離脱することなく(離脱した人は私以前に多くいたはずだ)たたかい抜こうとする眼力・知力と強力な仲間と頑強な持続的行動力があれば……その実践こそ真の自己批判たりえただろう。しかし私は絶望以前に離脱し、その挫折感を引きずったまま今日まで悶々とするのみだった。」

「そう、私はずっと胸裏深く普通人、市井の一庶民たることに憧れていたようだ。ここ数年、私は貧しく生活不如意で老後の不安を抱えながらではあるが、それに近い暮らしを生き延びてきた。誰に顧慮することなく、自己一個の乏しい稼ぎでも何とか成り立たせうる自前の生活スタイルはなによりも愛おしいものだった。・・・もちろんそれでは許されぬ自己責任の課題を抱えつつも。」

「そもそも理想、大義、真目的なるものへの参画と称し、人生の総てを最初から(あるいは中途からでも)自縛・他縛するようなことは、どこか虚偽があると思うようになった。その流れは必然的に子どもの未来をも束縛するのだ。そういう簡単な真実を知るのに、私には二度の挫折が必要だった。一度目は学生運動、二度目はヤマギシ。よっぽど大バカでも三度目はない。普通人にとっては、そこまでできるほど人生は長くはない。」(いずれも「ジッケンチとは何だったかⅡ6,人生の総てを縛するなんて無理がある

?「米俵も土俵に」発想の人間の手段化

その時、私ははっきりと<戦線逃亡>したといっていい。一瞬たりともそこに居たくなかった。「村外活動」の機会を与えられた時点で、同じ「生活自活」の仲間たちとの交流の場を確保しながら、初めて溜まり溜まっていた鬱積を交流できてきた。ジッケンチの中でいわばタブー視され<自己検閲>してきた言葉が開放され、世界が一段と広がった解放感があった。その2年後本庁から参画意思確認の問い合わせがあって、私は躊躇なくジッケンチを離脱する。 

私は今に至るもこのことになんの後悔もない。これがなければ私の人生を納得できるまでに再構築する機会は訪れなかったとまで思う。それは「自己表現」という営みを確保できたことが最大の理由である。もしジッケンチ内でこのことがある程度確保できたなら、私はもう少しそこに長くとどまることができただろうし、「問い」「向き合う」ことも辞さなかったと思う。しかし「自分が何者かも確認できない」ような状態(そこにそうさせる環境もあるが、私の弱さもついて回る)では目的意識的活動は不可能である。

そこであらためて先回提示したA氏の「まあ今は過渡期やさかいな。ひとりひとり持ち味を生かすというより、そうなる前の元づくりやな。米俵を土俵に使わんならん時もあるでの」という語りが何かしら象徴的な意味をもって浮かんでくる。それへの私の現在の反応は、「なんで米俵を土俵に使わんならんのや」である。もちろん緊急時の災害に米俵を使うことはやむをえないことではある。ただ人間が自らそのことを自発的に決意する以外は、このような働きかけは、要請とはいえかなり傲慢なことではないかと感じる。このことは時折感じられた人間の手段化につながっていくのではなかろうか。

//
さらにいうなれば、この「米俵を土俵に」という発想は、「目的のために手段を択ばない」とまでに充分拡張可能な考え方である。これはのちの経過を考えれば、A氏を中心とする実顕地の指導中枢を支配した発想だったことは、充分類推されることであろう。
いいかえればヒエラルキー等の体制づくりは、周囲状況への対応も含めた<変質>ととらえてきたが、そうなっていく発想を最初からA氏らは抱いていたと考えても不思議はない。

特に<係暴力>事件以降はマスコミ対応も大きかったであろうが、ともかく<不都合な真実>を隠蔽する徹底性は異様というしかなかった。それもおそらくZ革命の<理想>擁護のためだったであろうが、逆にその「理想の真実」なるものがずっと問われ続けられるであろう。私などの離脱動機はまさに「愛想が尽きた」というに尽きる。A氏の「無念の死」なるものもあらためて何だったのか、問い、かつ考え込まざるをえない。

//
               ?自己犠牲という人間的弱点

また私がA氏によって「評価されている」と感じてついついガンバってしまったのは、ある種の病的な錯覚だったのではなかろうか。そういえば、この評価されれているという内容は「土俵になってもかまわない」という<自己犠牲的>精神のことでもある。私はこの「自己犠牲」というものへの趨向性をどこかに抱え続けているらしい。これもやはり人間的弱点になるのではないか。

このことの気づきがもっと早かったならば、私のあの体制への加担は根拠がないとして、もっと早く愛想が尽きていたはずである。疑問は抱きながら、まだ先があるんではないかと、どこかで信頼していた節がある。

そしてこれも類推になるが、真面目な学育世話係の中に「ほんとうに子どもらのことを思って自己犠牲的に体罰を行使した」人がいなかったことをねがうばかりである。山岸氏は「立て替えの形で、犠牲によく似た行為」を挙げておられる。この真意はわからないわけではないが、実際にはよくわからない。

そしてなんといってもゆるがせにできないことは、「ひとりひとり持ち味を生かす」ことに尽きるのではないだろうか。それこそ真目的であり、土俵に使うなぞは、最後の最後でいい。

当時の私は別海試験場で抱いた「夢」を放棄し、さらに春日の<中調派>の人々を否定し、以後の実顕地体制の中で語録を斉唱することも含め、我執放棄としての「沿う」「合わせる」に取り組んできた。しかしそのことによる<自己喪失>の過程と時間が、なんとしても悔しい。それを何となく受け入れてきたことは、私の人生上の大いなる過ちであったと考えざるをえない。

したがって私にとって「自己表現」のための時間がなによりもいとほしいのである。それによって次第にことばを回復し、逆にそれなしには曲がりなりにもわが過去にも向き合うことができなかったであろう。

そのことばで最初に綴ったヤマギシの思い出は、別海試験場での体験『働かざる者食ってよし』だった。それは拙いとはいえ、自己犠牲や評価が独走しない「その人ひとりひとりが立つ」私の素直な夢想の世界とでもいったらいいのだろうか。それは直接理念から組み立てたものではないが、「人としてゆるがせにできない」ものを三十数年前にそこに感じたことはまちがいない。一時は誤っても、やはりそこに戻ってくる自分の「まっとうさ」にこそ依拠していきたいものだ。(続く)

2016/10/2


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(21)「権威」から<権力>化への、わが<貢献>
――評価されること

ようやっとというか、なおいくらかの躊躇も覚えながら、書きはじめてみることにした。テーマはジッケンチにおける「権力」的な部分のことである。

私はそのことをムラ離脱(実質1999年)数年前から意識していたが、離脱後は「上下階層化」「ヒエラルキー」という表現としてその部分を充てていた。やはり「あの<理想社会>が権力を持つ」という見方はどうしても異常であり、奇異なことだという認識から逃れることができなかった。そしてむしろ組織が大規模化することによる<調整統括.>とみなしてきた。しかしそれを超える無理な部分も次第に顕れてきた。今回はその内容を再吟味しながら、いいかえれば「奇異と感じる自分の奇異さ」を検証しながら、考えをすすめてみたい。

ただこの「権力」という言葉には、曰く言いがたい様々なニュアンスがある。念のため簡明な定義を上げておくと、「他人を強制し服従させる力。特に国家や政府などがもつ、国民に対する強制力」(コトバンク)とある。ジッケンチにおける権力的な部分については、私の渉猟の範囲では、このような意味でのストレートな断定は避けたいが、それでも実質それと同様の機能を果たしていた部分があったことは否定できない。特に子どもらへはずばり養育的配慮を超えた強制部分があった。それで以下の記述は「権力的」ないし<権力>(かっこ付き権力)としていく。

ところでその<権力>のことであるが、それは私には「反転する理想」とみなされる状況を生み出した最大の「力」だと考えている。そしてその結果として画期的な成功もあったであろうが、教育面では多くの「被害者」を生み出してもきた。したがって「あの力とは何だったのか」と問わずにはおれないし、そのことは被害―加害―理由(だれが、だれを、なぜ)について問うこととパラレルである。

この被害―加害の意識については、今回の「戦争責任」についての辺見さんの著述によって、あらためて引き出された感もある。ただこのことは従来通り「告発」を意図したものではない。あくまで「事実としての被害―加害」という把握の一環として、考察してみるつもりである。もちろんその前提として、まず私自身もその<権力>の重要な一翼を担っていたことを深く承認する。

?<権力>の始まりは「権威」だった

ところで私はその<権力>とは突然降って湧いたものではなく、やはり「権威」から始まっていたと考える。このことは理念的ないし宗教的団体も普通に似たような経過を辿るからである。なんといっても出発は創始者のことば、その「権威」からであった。それがしかるべき後継者を経て、大衆の心に届き、特に新興宗教の場合その巨大化はすさまじいものがある。その段階になれば内部的に組織護持の必要から様々な制度上の便宜を図り、中には<権力>的な部分も備えたであろう。

学園親からの参画者であれば、そのような権力的なもの、上下関係やヒエラルキーは人にもよるだろうが大勢としてそれほど違和感はなかったのではないか。そういったものは会社組織や公務員には当たり前の制度だった。ところが私の場合、そのような違和感は尋常なものではなかった。

それは創始者山岸巳代蔵さんのことばに反し、またそれを継承されてきたとされる初期のリーダーの考え方にも反していた。それは山岸さんの後継者とみなされていたA氏のことである。その最初の出会いからは、おそらくのちの変化(私には<変質>と映っている)は想定できなかった。

なぜそうなっていったのか、その過程をまず情況的にふり返ってみること、さらにそれによって「私とは何者であったか」が浮き彫りされそうな気がしてきた。それは、これまで問わず(‘‘‘)すませて(‘‘‘‘)きた(‘‘)」部分、ないし「(自分に)問いにくいことを問う」ということを意味する。

私は1977年暮れに北海道試験場(別海)から豊里実顕地に配置された。その時人事係から示されたのは最初から「○○の配置になった」といういわば本人への<告示>だけだった。前もって直接希望を取るなどの配慮は一切なかった(関係者間の連携はあったろうが)。別海では自動解任もあったし、人事とは配置について気軽に相談していたので、ちょっとした違和感が残った。あとでふり返れば、これがおそらく私にとってジッケンチにおける権力的なるものへの予兆だった。

その後半年もたたないうちに私(と他ひとり)は、当時この実顕地建設運動を中心になって推進していたリーダーA氏との面談(いわば個別研か)を受け、春日山試験場への配置替えを打診された。それはのちの感覚からすれば、まさに<指示ではなく要請>そのものだった。私はまだ右も左も知らない中での選択であり、躊躇しながらもともかく受け入れた。そのときおそらくA氏が述べたであろう、私にこびり付いていることばは「米俵を土俵に使わんならん時もあるでの」であった。この部分は私の未完の小説の中で解説的なニュアンスも含めて以下のようになっている。

「まあ今は過渡期やさかいな。ひとりひとり持ち味を生かすというより、そうなる前の元づくりやな。米俵を土俵に使わんならん時もあるでの」


?「いかに自分が評価されるか」の人間的弱点

さらにそれに続く小説部分を引用する。

「それは一瞬に仄見えた衣の下からの太刀の一閃だった。丈雄にとっては薄命の中にあった方法手段についての、あまりにも明解で当たり前な解答だった。目的と手段に関わる古来からの問いに、少しは期待していたJ会らしい特別な方式などはないのである。やはり目的実現には捨石が必要なのであり、それがいつの時代のどんな組織にも変わらぬリアリティーだというしかない。そして今この時、お前はその土俵になれるかとあからさまに問われていた。なんとおれは土俵なのか! 丈雄のなかに一瞬それはないよという怖れが走った。同時に土俵にもなれる人物として自分が選ばれた陶酔が交錯した。それを感じると、意外にも丈雄の逡巡は薄らいでいた。」

 私は別海にいながら遠見で実顕地運動なるものを観察していた時期には、「(一体とは)米ではなくモチになること」という指標に、「なんでモチにならにゃいかんのか」と反発さえしていたのである。したがってのちの現実の経過からすれば、このA氏の「ひとりひとり持ち味を生かす」という文中の表現は、私の当時への期待を込めたフィクションであったかもしれない。もっとも当時「見出そう自分の良さを/引き出そう相手の良さを/合わせよう互いの良さを/そこで味わう一体の良さの良さ」という実顕地の指標には好感は抱いてはいた。

同時に私にはズバリ言いにくい部分として(だから小説とは便利である)、「土俵にもなれる米俵」として自分が評価されることに<妖しい思い入れ>が沸き上がっていた。この内実は、おそらくA氏も察知したうえでの私への投げかけであったにちがいない。私は未知未開の新たな<革命>運動を領導していく人間の資質として、(好みの次元ではなく)そのような洞察力とそれによるいわば強引と見える(当事者には)力技は不可避であったと考えてしまう。いいかえればA氏は、そのような素材として、今後どう転がるかもわからない私を<試して>もみたのであった。

ここで、多少の注釈が必要かもしれない。これまでもいくつかの組織を経巡ってきた私の現在の認識からすれば、この「いかに自分が評価されるか」という部分は、これまた曰く言いがたい部分であって、こういう場で公表するのは私が初めてではないかと思う。私はあのヒエラルキーがなぜあんなにも長く続いたかについて、従来の説明では足りないと考えてきた。そのことの一端は、2008年の「ジッケンチとは何だったか、Ⅰ」で触れてはいるが、「私自身の貢献」という観点は乏しかった。今ようやっと、そのことに向き合いつつあると感じている。

というのは、この「いかに自分が評価されるか」という部分は、人間の幼少期からの育ちに起因し、場合によっては各自の<人間的弱点>をそこにさらすものであり、しかもそれは相当心しないと意識的陶冶が困難な分野でもある。そのことは組織構成側の重要なファクターになり、おそらく<練達な人事>ほど、そこを見て見ないふりをする。「一体」といい「親愛」という美しい言葉も、その目立たない「自他評価」の<深淵>を外しては成り立たないのではないかと想う(「評価なし」という選択も含めて)。

?ヒエラルキーと「一列横」の分岐点

その後私が体験した事実は、かつてない過酷なものだった。いわゆる夜討ち朝駆け、月下での集卵、歩行困難になったメンバーへの診断が「行軍病」であったこと等々、であった。傍らには<中調派>と呼ばれていたグループが、夕方の明るいうちから<優雅に>入浴・夕食を取っていた。それはその後展開されていった<中調派>と<造成派>とのいわば党派闘争の始まり、ないし渦中の風景だった。それは、闘争のイメージからするほど<熾烈な>ものには見えず、ヤマギシ流ののんびりした口調の研鑽会のなかで進行していった。熾烈さの方は、むしろ私自身に課した労働自体にあった。

そのことに私は、「何ゆえにかかることにかかずりあうや」の<自己内反問>にとりつかれそうになりながら、なんとか持ち応えたのが不思議だった。時折A氏に<してやられた>と感じることもなかったとはいわない。

おそらく、かなりの時を経過して(実時間はもっと短かったかもしれない)事が何とか解決し始め、春日山実顕地の成立まで何とか持ちこたえた(実際、当時私とつながりのあったメンバーの少なくない数が村外に消えた)。いわばいまだ<根拠>も見えないものから、次第にその<根拠>を形にしていく(自己了解していく)妙味をも感じていたかもしれない。その私の<自信>の裏付けとして、A氏への感嘆と尊敬の念が次第に膨らみ継続してきたことは疑えない。

ふり返れば、たまたまその配置替え<研鑽>の場に、付け人のように座っていた3人の反応が私の目元に残っている。A氏の言にいちいち、いかにも恐れ多いオコトバを賜った臣下の如く大きく首を縦に振ってうなずいたのである。それは私にはまさに違和感でしかなかったが、のちにあらためてこのいまだ知らぬAという男の存在の大きさを想像させられていた。

ここでなぜ私がA氏のことを取り上げたかはおわかりだと思うが、のちに確立していった「上下関係」「ヒエラルキー」なるものも決して制度自体から始まるものではなかった。すなわちリーダーなるひととメンバーとの人的つながりの強固さにあった。その始まりは支配―服従関係ではなく、いわば指導―随従関係といってもいい。その<変質>過程がヒエラルキーにつながっていく。しかしこのことはあるいは当初からの<構想>のうちにあったことかもしれない。ともかく私にはあまりにも自然かつ自動的な成長として「ヒエラルキー」が眼前していたのであった。

このことは新興宗教どころか、歴史をひもどけばあらゆる権力(特に世襲的、封建的)は、そのようにして成り立ってきた。ただ実顕地はヤマギシの「理想」に鑑みる限り、そうさせてはならなかったはずである。いうなれば〈ひととは互いに「一列横」の対等・平等な存在であるという感覚と認識〉のことである。山岸さんがその部分でどんな「具現方式」を抱かれていたのか私はあまり知らないので、全集編集者諸氏からの教示を承けたい。ただ青本では

「譲り合いで交通が混雑しないように、順位だけは定めて」
「横の人(中心とか、竪・上下の人でなくて)として固く手を握り合って」
「幅る辱しさに気付いて他に譲り度たくなる」

等のことばにヒントを込められていたような気がする。 (続く)

2016/9/25



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(20)満員バスの中からの問い 「なぜ座れないの?」

あまりに奇妙な場面だったので、どう受け止めていいのかわからない。ともかく気になるものが残るので、事実から記しておく。

ある雨上がりの午後、ムシムシした満員バス車内、どちらかといえば年配者、年寄りが多い。首まわりにじっとり汗がにじむ。突然

「わたし、なぜ座れないの!」

という大声が響き渡った。女の声である。車内全体の響いたと思う。声は明瞭でのびやかだが、尖っていないこともない。顔が一瞬見えた。立て皺が少し目立つ白っぽい顔、三十代ぐらいか。少しばかり狂っているのか、判断はつかない。施設の人なら付き添いはいそうだが、人陰で不明。

どっとどよめいた声々。隙間から苦笑いを浮かべたおばさんが立ち上がったのが見えた。瞬時だったと思う。他にも立ち上がった人がいたようだが、こちらからはわからない。おそらくそのおばさんたちは席を空けたのだ。その大声を発した女性は、一瞬にして思いを達したようである。姿も見えなくなったし、続く声もなかった。

?

私は呆然としたまま、あれこれの後追いの想念に身を任せた。

「尖って」とか「狂って」などの思いが先行したが、これは「施設の人だ」という先入主観からかもしれない。

もし事実でないとしたら、これまたもっと謎が深まる。<まともな>人がこういうことを叫ぶだろうか? いやこれもヘンだ。何らかの事情でまともな人が、ほんとうに困って声を発したのかもしれない。

それに席を譲ったらしいおばさん(たち)の「苦笑い」も、よく見ると苦笑いかどうか。ひょっとして心地よく立ち上がったとも思える。善意とか、配慮とかではない一瞬の条件反射として。「ヒャーなんかおもろい人がいる」なんて思って。

少しふり返ってみただけでも、私のなかにかなりの自己主観があると思う。しかし一瞬の一瞥であって真相は不明である。それでどうも話はオシマイのようである。やれやれ、お騒がせものであるが、暑い最中の一時の気慰みにはなっている。そんな思いのまま帰ってきた。

しかし一夜明けなにか気になるので、このことをメモし始めた。まず出てきたのは、それらの主観を外して<事実>のみ見れば、あの大声の女性は、思いをことばにし、その言葉を音声として発して、現実を変えたともいえる。すごいことじゃないか! という想念が浮かんできた。

不意に想ったのは赤ん坊や幼児のことだった。「あたしは、なぜ食べれないの(できないの)」のいわゆる<ダダコネ>である。しかしダダコネというのは、実は親の側が原因になることが多い。はじめは「あれ食べたい」「これしたい」の欲求表明だけだったはずであるが、叶えられない場合当然「なぜ?」の反問がある。こういう場面は赤ん坊や幼児にとっては当たり前すぎる日常生活現象で、それに親が忙しいとか、親の意に沿わないとかで、ダダコネになっていく。ただそのイメージが強いせいか、一般に似たようなことが大人にも見出されると、<幼児的退行>なんてみなす場合もありそうだ。

?

赤ん坊や幼児がそうであるように、あの「わたし、なぜ座れないの!」と大声を発した女性も単なる欲求表明、いいかえれば「自分が置かれた状況への疑問」を発しただけの存在にも思える。事実はわからないが、私の脳裏にそのような姿を<置いてみた>。いいかえればそのように仮定して、あれこれ考えてみた。

するとそれが何かのきっかけに、わが娘のことに思えてきたのである。そのきっかけは思い出せないが、おそらく2,3日前に娘から「今晩は満月だよ」と言われ、外に出てみたことだった。たしかに、うす曇りで霞んだ満月が見えた。以前にも声がかかって、高層住宅のせいでなかなか見えなかったので、それっきりになっていた。そしてこういうふうに「すっと娘の思いを受けてこなかった自分」という痛みが蘇ったのであろう。

娘はざっと30年前以降のあの学育・学園時代に、ずっと「あたし、なぜ○○できないの」と思い考え続けてきたのではないのか。あの高声の女性にちなんでいえば「ここにはなぜ私の<座席>がないの?」だったかもしれない。そしてそのことをまず私や妻に伝え、わかってほしかったはずである。その実際が聞けたのは、かやさんコミックが出る3年ぐらい前のことだが、まさにそれが親にとっては驚くべき事実だった。

もっとも当時娘は様々にシグナルを発していたはずであったが、私は様々な先入主観から娘を<たしなめ>てきたのだった。上述の女性への<先入主観>のように。そして愚かにも最も肝心な事実・真相を知らずに(‘‘‘)すませて(‘‘‘‘)きた(‘‘)」のである。いいかえれば「問わず(‘‘‘)すませて(‘‘‘‘)きた(‘‘)」といってもいい。さらにいえばそれらは最も肝心な知らずに(‘‘‘)すませられなかった(‘‘‘‘‘‘‘)もの(‘‘)」であり、さらに「問わず(‘‘‘)すませられなかった(‘‘‘‘‘‘‘)もの(‘‘)でもあった。

それがなぜ叶えられなかったのか? そのヒントが、まさにここにありそうな気がしてきた。すなわちその<先入主観>とやらを何一つ疑うことなく固守する態度、いいかえれば「奇妙だと感じた自分自身の奇妙さ」に全く気づかなかったからではないか。

?

ふり返ってみれば私が学育・学園の<驚くべき>実態を知ったのは、娘の告白によって、さらにはかやさんのコミックからだった。それは知らされたものであって、自ら調べ調べ、探り探って気づいたものではなかった。なんという甘さであろう。あんなにも、おそらく<組織生命をかけて秘匿してきた情報>がそんなに易々と漏れるものではなかった。いや、これはどうも大げさだ。そんなことではない。わが先入主観をどれだけ外すことができるかどうかにかかっていた・・・・・・

「わたし、なぜ座れないの!」という声を発した女性は、そういう問いのまっとうなかけがえのなさを、私に「知らせ」かつ「問いかけ」てくれたようにも想える。三十年もたってようやっと、そういうふうに感じられる自分=私。あの娘の学育・学園時代、親であった私は、理念、教条、たてまえでガチガチだったであろう。そんな私に娘の「問い」の切実さが届いたはずがない。そのうち娘は問いすら発しなくなったはずであった。

//「答え」(といってもまだ確定とは思えないところもある)は実に簡明なものであった。同時にその実行はおそらく困難極まりない。とはいえ今回たまたま引くに引けないと思ってしまった私の極小体験としての「問いのまじめさ」がいくばくかの参考にはなると期してみたい。

これらの「知る」とか「問う」の表記法は先回紹介したようにアウシュビッツ帰還者のブリーモ・レーヴィと辺見庸「1937」から学んだものである。辺見さんは、1937年「南京大虐殺」を様々な作品や記録を通して浮き彫りにしながら、あくまでそれを「個」として見直してみようとされた。したがって辺見さんの最も大切な問いかけは、もうかなり昔に死没された「父」(日中戦争に出征)に向けられている。(その部分は親子間という私事〈私記〉というところに、私はある因縁めいたものを感じる。)そのことは「問わず(‘‘‘)にすませて(‘‘‘‘)きた(‘‘)」ことだったからであり、だからこそ「(自分に)問いにくいことを問う」という営みとなってきたと思える。

それとヤマギシはどうかかわるのか? さよう、戦争というあまりの巨大凄惨な現実に対し、ヤマギシで起こったことは「反転した理想」の帰結だけである。そのちがいは大事なことであるにちがいない。ただ同時に、そこにも被害―加害の実相があり、娘や子どもらにあの時期「心が病み、かつ死んでいた時間」があったことを忘れるわけにはいかない。それは当事者にとっては規模や量の問題では全然ない。

そして今回の高声の女性の「問い」は、娘のことに限らず、自分のなかに問わず(‘‘‘)すませて(‘‘‘‘)きた(‘‘)もの(‘‘)」のあれこれを蘇らせてくれそうな気がする。もしたとえ答えはなくとも「問いかけ」がなくなれば、それらは「知らず(‘‘‘)問わず(‘‘‘))にすます(‘‘‘)べき(‘‘)もの(‘‘)」になりはて、いつしかその過去は消滅してしまうであろう。そしていったん「問い」をはじめれば、「ひと」としてかけがえのないこと、由々しいことが、たまたまヤマギシというものに<出逢って>しまった私の脳髄と身体のなかにまだまだ蠢いていると感じる。


2016/9/19



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(19)社会的悪業へのひとりひとりの<貢献>と状況認識について

このところ頭がテンパっている。カンカンといってもいいか。もともとそれほど強靭ではないのに、荷が重すぎる。理由はわかっている。従来からの懸案のテーマを考えながら、参考に辺見庸「1937」を読み出し、さらにその参考にブリーモ・レーヴィ「溺れる者と救われるもの」もつまみ出した。しかもその<参考>がタダモノではない。時折呑み込まれそうになる。(それはそれでいいのだが)すいすい読めるはずがないから、行きつ戻りつになる。

そのうち「おれは何がやりたくて、かかるものにかかずりあうや」という気分というか、弱音というか、が出てきた。出発点は、当初は誤れる学園に送った親やその子らへの謝罪意識だった。それに加え、ここ1年私は<わが子への加害者>であったという事実にうちのめされてきた。そのオロカさからいかに離脱するか、という課題を「反転する理想」という言葉に託して模索してきた。しかしその渦中にあった「私は何者だったのか」への問いの構築はいまだしであり、それも始まったばかりである。

その私の弱音を集約すると、これらは私の問題意識への<参考>としてはどうも飛びすぎではないか、というよりその設定ができないまま、うろうろしているということになろうか。

例えば辺見さんの「1937(注―1937年からの日中戦争)の問題意識は(他にもあるが)以下のようである。

〈それはこうだ。わたしじしんを「1937」という状況(ないしはそれと相似的風景)に立たせ、おまえならどのようにふるまった(ふるまうことができた)のか、おまえなら果たして殺さなかったのか、・・・・(中略)・・・・これらの設問には〈戦争だったからいたしかたなかったのだ〉といういいわけにもならぬ(にもかかわらず、いまだに一般的に頻用されている応答以外(‘‘)に、問いそれじたいのむげんの重みにせいじつに堪える答えがほんとうにないのだろうか。おい、おまえ、よくかんがえて答えてみろ・・・・・・の声からわたしは逃れることができないでいる。〉(いま記憶の「墓を暴く」ことについて)

なんというすざまじい問題意識だろう! 私も辺見さんと同じ戦中に生を受けた世代として、<戦争加担>への関心は決して乏しいわけではない。辺見さんの志を大いに壮と感じるものの、今のところ正直どこか怖いもの見たさでページを繰っている。しかしそこで展開されているなんというのか、視画というか、倫理というか、論理というものが、ヤマギシ問題にも重なってくるだけでなく、もっと深く厳しく刺さってくるようにも思う。ただ、その両者の規模のちがい、時間的懸隔、社会的認知度について、けっして本質ではないにしても無視できないとも考え出している。そんなあれこれでこの書は、いまだ半ばで読了できていない。

?<ひとりひとりによって世界は変わる>

ところで実は、ブリーモ・レーヴィの以下の文章を読んだとき、なんとなく観えてきたものがあった。たまたま拾い読みの新鮮さもあったかもしれない。これはたしかに重要な文章で辺見さんも、この全文も含めいろんな角度から取り上げている。

「――ナチの機構の中で、なされた恐るべき残虐行為を知らずに(‘‘‘)すませられなかった(‘‘‘‘‘‘‘)もの(‘‘)がどれだけいたのか、だれもはっきりとは確定できないだろう。またどれだけのものが何かを知っていたのか(おそらく知らないふりができた)、あるいはすべてを知る可能性があったものがどれだけいたのかも(だが目と耳を、そして特に口をしっかりと閉じているという、より慎重な道を選んでいた)、だれもはっきりとは確定できない。だがいずれにせよ、大部分のドイツ人が少しの良心のとがめもなしに虐殺を受け入れていたとは思えないから、ラーゲルの真実がまったく広まらなかったことこそ、ドイツ人が犯したもっとも大きな集団的罪なのであり、ヒトラーの恐怖がもたらした最もはっきりした卑劣さの表れであるのは確かだ。その卑劣さは生活習慣にまで入り込み、非常に深く根付いていたため、夫が妻に、両親が子どもたちに語ることを妨げていた。そしてこの卑劣さがなければ、恐ろしい行き過ぎがなされることはなかっただろうし、今日のヨーロッパや世界は別のものになっていただろう。」(「溺れる者と救われるもの」序文)

読んで間なく私は、これはすごいと思ったのである。一つはこれまでの日本に比べてずっと良心的だと考えてきたドイツの、ナチの戦争責任への戦後対応がいまだしのものであったかもしれないという認識だった。

もう一つは、これまで何とかわかっていた、あるいは腑に落ちなかったことが一瞬にして解けたと感じた。それを私なりに表せば上のタイトル「社会的悪業へのひとりひとりの<貢献>」というものになるだろう。このテーマは、この間ヤマギシ離脱グループ間で論議されてきたヤマギシの<理想に反した諸業>への責任論にかかわる。それは大別すれば「構成員全員に責任がある」「組織序列の違いで責任は異なる」のちがいであった。その中でも子どもらへの加害責任については、ほぼだれもが承認する。

もっともこれはアンケートを取ったわけではないから、個々人の経験あるいは考え方からの想定であるにすぎない。しかしこのレーヴィの把握は、多くの読者、帰還者との面談が成されているようなので、それなりに根拠があるのであろう。これは選挙のたびに感じてきた「1票の大切さ」に近い荒唐無稽とも思えない。しかもこうまで明解な断定は私には初めてであって、それ次第によっては「世界」を変えるというのであるから、なにかしら「ひとりの貢献」というものの実在を信じたくなる。

?状況認識と個別決断

 ところで辺見さんはレーヴィのこの部分について注目されたのは出だしの「知らずに(‘‘‘)すませられなかった(‘‘‘‘‘‘‘)もの(‘‘)」のことだった。

「――確信はないのだけれど<知らずに(‘‘‘)すませられなかった(‘‘‘‘‘‘‘)もの(‘‘)>とは、余人はいざ知らず、じぶんは知らずにはとてもすませられず→∴知ろうとし→∴ひとりで調べてみようとする――という、国単位や民族単位ではよくなしえない、すぐれて個的な動機をバネにし、内的に切迫した契機をもつからではないだろうか。」(52、「知らずに(‘‘‘)すます(‘‘‘)べき(‘‘)もの(‘‘))

 そしてレーヴィについて「『ドイツ人』『集団的罪』などの〈大きなことば〉」を使っていて、それもまちがいではないが、「それ以前に、ものごとの順番として、わたしはわたしじしんに、〈おまえはなぜ問いにくいことを問わなかったのだ〉と問わなければならない」としている。

 ここで私ははたと感じるものがあった。辺見さんの趣旨、ないしその全貌はまだ本当に理解できているとはいえない。ただこれまで読んできた感触で、私はいわゆる<状況的>認識とか理解というものへの、辺見さん自身の考え方がはっきり打ち出されていると感じた。それは同時にこれまでの私自身の<状況的>把握の体質にもかかわるものだった。なるほどレーヴィの文章は私には読みやすいはずである。彼の状況把握はシャープで見事なものだった。しかし、彼の本領はその人間凝視の透徹した厳しさ(おそらくのちの彼の自死につながる)にあった。

ただ断っておくが、辺見さんが言うからそうだというつもりはなく、私なりに描けたのはまず子どもらのことであり、あるいは収容所のような場のことであった。そこでは状況が解ろうが解るまいが個々の<いのちの問い>が発せられるであろうし、それ自体に答えられる人間存在が必要なはずであった。

このところヤマギシ問題についてもOさんと「状況、立場、体制のせいにしがちな」体質についてメール交換をしたばかりだった。それでこれまでの自分の<状況依存>体質についてかなり意識し始めていて、今回は整理をつけるいい機会だったと思う。もっとも、だからといって状況認識自体を否定する気はまるでない。ある意味では不可欠の分野もあることだけは断っておきたい。

そのうえで残るのは私自身がヤマギシのあの状況(どんな状況であろうと)に自分を立たせて、どのようにふるまえることができたのか、子どもをぶん殴りしなかったのか、ヘンな誓いをしないでいられたのか、そして<知らずに(‘‘‘)すませられなかった(‘‘‘‘‘‘‘)もの(‘‘)>あるいは<知らずに(‘‘‘)すませて(‘‘‘‘)きた(‘‘)もの(‘‘)>がなかったのかどうか・・・を私自身に問い続ける営みを絶やさないでいくつもりである。その出発点はやはり娘の学育状況について二十数年にわたって<知らずに(‘‘‘)すませて(‘‘‘‘)きた(‘‘))>私自身の痛切な悔恨が焼き付いている。

2016/9/11



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(18)ムラ離脱後の〈失語〉から  〈主体〉とは何か?

私はこれまで幾度か石原吉郎に啓示に近いインスピレーションを享けています。少々おこがましいし取り違えもあるかもしれませんが、他からは享けられなかったものだからやむをえません。その一つがまず<失語>というテーマでした。これについてはいわゆる「語る言葉が浮かんでこない」という戸惑いから始まると思いますが、「ことばの喪失と回復」というテーマにつながるものでしょう。

これについては、コミックかやさん物語に始まる係暴力ないし、親子の亀裂についてすでにOさん「手記」では、石原論考などの引用によってさまざまに展開されています。私はそのことをもっと原理的に考えたくて、ムラ離脱後に直面した<失語感覚>をもう少し回顧してみたいと思います。石原さん曰く

「失語の過程を追うのは、すでに回復していることばであることに、注意していただきたいと思います。これは私たちのあいだで、〈追体験〉とよばれている過程ですが、このばあいの〈追体験〉は、体験そのものをはるかに遠ざかった地点でかろうじて回復したことばが、そこまで漂流した曲折をあらためてたどりなおして、ことばの喪失の原点へ里帰りするかたちで行われます。そうしなければ、失われた空間が永久に埋まらないからです。それは、犯行の現場からたえず遠ざかりながら、そこへ引きかえさざるをえない犯罪者の心理に、似ているといえないことはありません。」(「失語と沈黙のあいだ」)

 こういう認識については、私(たち)が経験してきた<ジッケンチ生活とそれからの離脱>にかなり重なる部分があります。たとえば、ムラでは新たなことば(イズム用語)を習得していくとともに、失っていったことば(失語)がありました。ざっと思いつくまま上げてみますと、「戦う(闘う)」「抗議・批判・非難」「見返り」「損得」「友だち」「搾乳」・・・これらはいうまでもなくそれ以前の<シャバ>からそのまま持ち込んできたことばです。これらは納得して使わなくなったことばもありますし、使ったらまずいという<自己検閲>でそうなっていったものもあります。

これは<純正イズム>を組織的に志向する社会の必要から必然的にそうなっていったともいえるでしょう。これは私にはかなり特異なことだと思います。普通のこういうことはまず宗教団体、カルト、ないしそれらに近い集団でしか起こらない。要するにジッケンチで生きるとは、端なる思想(理念)学習・習得を超えて思考方法、生活行動様式、用語までも体得し、全人格の変革めざして取り組んだ(ヤマギシズムの顕現)からだと考えられます。

?

他方、ムラから離脱していく過程は、一般的にはムラで失語したかつてのことばを回復していく過程とも捉えられますが、ここでは私の体験に限定します。というのはこの過程は決して一律なありようはなく、「自分のことば」の失語と回復といいうるくらいの個的、個別な過程だからです。

私が一般社会での暮らしのやりくりに奔走しながらも、いずれは関わってきた運動の自己批判・総括を書くことを自分に課していました。とはいっても、まずは「あそこの<体験>とは何だったのだろう」という問いが先行します。そこで直ちに気づいたのは、それを表現できる語彙が決定的に足りないし、偏っていることです。私のように対外的広報・拡大にかかわっていた人間でも、いざ「表現」となるとどうもそうなる。そのため文学学校に通った時期もありました。

その後、マンション住込み管理員をやりながらも、数編の手記的小説と詩が生まれました。たしかムラ出後34年のことです。しかしその間は、いわば苦悶の時期であり、よく家人にたしなめられたのは、寝言の多さや歯ぎしり、時には絶叫までしていたことでした。それは次第に沈静していったようですが、現在でもまた擡げてはじめています。それはやはりかやさんコミック以降です。自責、贖罪感覚とは理論的に整理がついたと思える現在でも、それは根が深いもののようです。

ジッケンチについての、私なりの本格的論考(「ジッケンチとは何だったのか」)が生まれたのはそれからさらに数年後でしたが、この時差とは何だろうと思ったことがあります。ところが3年ほど前に石原さんの詩・文に親しみだして以下のような自己解説に触れました。

「この時期の苦痛に比べたら強制収容所での〈生(なま)の体験〉なぞは、ほとんど問題ではないと言えます。この時期に言わば、肉体は解放され、精神は逆に拘束されるという形で〈体験〉そのものに見合う混乱と苦痛が始まる訳です。」

「帰国直後の精神的な混乱とアンバランス、そしてそれに当然付きまとう失語状態から、曲がりなりにも脱け出すことができたのは、私に〈詩〉があったからだと思います。その後私が散文を書き出すまでの15年ほどの期間は、外的な〈体験〉を内的に問い直し、それから問い直す主体とも言えるものを確立するための、いわば試行錯誤の繰り返しであったということができます。」(以上「〈体験〉そのものの体験」)

これまたレベルのちがいを無視しておこがましいことですが、私にはここでいう石原さんの「苦痛」とそこからの離脱についてどこか重なるものを感じます。その方法としての〈詩〉について、石原さんは「混乱を混乱のままで受け止めることができる唯一の表現形式」とされています。またそれから15年後に書かれたかれのいう〈散文〉とは、『望郷と海』などの論考的エッセイを指します。私にとってはその前者に当たるのは〈小説的手記と詩〉ということになるでしょうし、後者に当たるのは論考〈「ジッケンチとは何だったか」〉でしょう。

?

//そして現在、私(たち)は石原さんの<15>よりも先の時間に踏み込みつつありますが、内容はいまだ断片的です。それでもようやっと「ことばの喪失の原点へ里帰りする」感触を少しずつ味わいつつあるのかもしれません。ただそれ以前に何よりも心許ないのは、石原さんのそれが本来の大きさと深さで受け止められるためには、なによりも主体の回復、それを考えるためのことばの回復、その回復のための時間が必要だ・・・」という条件を私(たち)は満たしているのかどうか?

なかでも石原さんのいう「主体」とは何だろうという問いが残ります。これについてのヒントとなるのは石原さんの次のような謎に満ちたことばです。

「――そしてついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。その時、加害者と被害者という非人間的対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。〈人間〉は常に加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間は自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、一つの危機として認識はじめる場所である。」(「ペシミストの勇気について」)

このことばには何度も相対してきました。しかし加害者の自覚だけはありますが、よく解りません。石原さんの詩的直観から生まれたものでしょうから、そもそも〈わかる〉という次元のことばではなさそうに思えます。それでも〈人間〉ということばから、〈人間的〉とか〈人間の条件〉とかいうことばが派生し、そこから何かしら身が引きしまる思いが湧いてきます。

私は、これまでずっと「知りたい、解りたい」と欲求する不可解な対象世界(⇔自己世界)を曲がりなりにも究明し組み立てていくという営みによって、ある意味救われてきたと思います。そのことで多くの語彙を蓄えても きました。しかし娘との<失語関係>とそれによる自分の親としてのオロカさを自覚して以来、何かしら変わってきました。それは、娘や子どもらが「自分とは何者か」と問いながら見出してきたことば=自己への納得・肯定感〈愛〉による主体の確立と同時共感共鳴できる私自身の主体確立であることをねがってやみません。

そのことを含めての「原点へ里帰り」を期しています。まだまだ過渡のようですが・・・

2016/9/3



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(17)「引用」とはなにか? 「反転する理想」は反転する人による

私(たち)にとって現在気になっている、あるいは評判になっているある新刊本のことです。私は書店に在庫のあった1冊を偶然入手できました。ところがこれもまったく偶然ですが、本の序章の前の数ぺージ読んだだけで中断したままです。不意に「引用とは何だろう?」という問いに捉われたからです。

 というのは、私はこの本を熟読玩味し、感銘・感動し、のちに多くの行を引用の対象にしてしまうでしょう。この、これまで当然のようにやってきたことへの想定に、ふとはて? と立止まってしまったのです。このことはこれまで私が大事にしてきた「自己思考」や「自己表現」というものとどうかかわってくるのか? なんかそこをあまり考えずかなり無頓着でやってきたのではないか。

いうまでもなく引用というものの動機は、自分の表したいことが、もっと優れた表現として見出されるのであれば、それをお借り(断って)するのは当たり前のことだと考えてきました。それは今も変わりありませんが、問題はそれが自己思考にとってどうなのか、という問いになります。もう少々つっ込んだ整理をしてみます。

?

本や著述=他人の思考ですが、それを引用する動機ないし過程・結果としておおよそ、①それを咀嚼(自己思考)しながら引用する、②めんどうな自己思考を省略できる、③丸?みする、の3点が考えられます。私としては一応①でやってきたつもりですが、実はそこでまた止まりました。「ほんとうだろうか?」

特に今回購入した新刊本のことですが、すでに書評等は目を通しており、その作者の従来の作品には相当な思い入れがありました。したがってそこにはある種無前提な信頼があるはずです。それはきっと優れているはず、そして実際ぞくぞくさせる知的刺激が導入のことばからも伝わってきます。しかしふと掠めたのは、そこに<信仰>はないのか? でなければ、それとどこがちがうのか?

少し先回りしますが、いわゆる優れた論考や文学作品への感銘や感動は<信仰>とは異質なものだという認識に私も同意します。しかしそれも微妙ですが、<信仰>的なニュアンスを持ってしまうことはないだろうか。「引用」のテーマを超えますが、その感覚はあるいは②や③の選択に、はじめはそうでないとしても、どんどん近くなってくるような気がします。

私の念頭にあるのは、文学作品とはちがいますが、思想書のことです。それは私の場合学生時代のマルクスとの初発の出会いであり、またのちには山岸巳よ蔵とも(「特講」を介してではありますが)、衝撃的な出会い感が残っています。そしてその二つが私の人生に指針を与え、長年にわたって私を<支配>してきたといって過言はないでしょう。(断っておきますが件の新刊書は、そのような質とはちがうもので、いわゆる思想のウラのウラをあつかっているものです)。しかもそれは自己思考の範囲を超え、いわゆる<実践>や生活にまで及んできたのです。

いいかえれば、それらはまぎれもなく思想自体の引用から実践・実態面からの引用と捉えることもできます。しかもマルクス、ヤマギシとも見事に反転してきており、このことはどうしても今考え中の「反転する理想」という私の自問自答につながってきます。引用という観点でその実行行為を考えれば、そこはどうしても②や③の部分が顕著になってきます。特に従来の生活環境をもろ変えてしまう「参画」は、いわば対象現実を呑み込むしかないものでしょう。

それはすでに参画前から始まっていて、新思想に対して自己思考や自己表現をもってとことん対峙したわけではなく、その出会いの感動、あるいは激震に身をゆだねたままの実態であり、かつその自己思考の短絡ないし丸?みが習慣化していればいるほど、そのままいけば当然「われにスローガンを与えよ」の歴然たる他者思考「主義者」の世界、いいかえれば<信仰>の世界に入っていくしかない。ならばすでに参画前から、私(たち)は「反転する理想」の深層水路を無意識に歩んでいたと見えてきてしまうのです。

参画時、私は<一見前向きな善意そのもの>フレッシュボーイとして年甲斐もなく希望に燃えていました。それは実はおそらくそれ以前のマルクス思想からの中途半端な<移籍>になっていたかもしれないのです。その証跡のように、ムラ離脱以降私はホゾを噛むような後悔にも襲われてもいます。「あんなヤマギシ体験なぞおれの人生にとって全くなくてもよかった」という思いで。それも今ふり返れば、参画前の時点での究明次第では全く参画なんか不要だったという認識まで到達できていたかもしれません。

?

したがって、これまでの思想ないし理想実践の<引用>としての参画とそれ以降のジッケンチ生活は、いろいろあったにせよ、やはり反転へと進んだのではないか。私はこの間その反転の各情景、ないし状況をいろいろ取り上げてきて感じることです。またここしばらくOさんの「思索メモ」を整理、UPする過程で、つくづく感じたのは「<反転する理想>とは、<反転する人々>によって生み出された」のではないかということです。これまではやはり「状況の反転」という把握が主になっていて、「それを見ている、あるいは捉えている私自身という観点」への突っ込みが乏しかったと思います。

そこで改めて私に蘇ってくる情景があります。例の「墓前の誓い」のことで、私はその発表者の一人に選ばれていました。あの場面は今でも羞恥と慙愧に耐えないのですが、ムラ離脱後、それをふり返って書いた文章をあえて提示します。

おれは深夜個室に篭り、R氏のテキストの心に響く部分を何度も朗誦し、集中し、自分を追い詰め、突き詰めていった。・・・それを自分なりの数行の言葉の中に封じ込め何度か朗誦しているうちに、天地間と呼応する自己内の充実を感じた。・・・これこそあの『特講』で味わった自他融合の境地の蘇りだろう。そしてこの地球上の世界全人に向けて、一塵芥にも満たぬ自分にも為すべきことがある、と思った。おれはわが内なる、しかも他の大いなるものと通底する、崇高本能の巨大さに震えた。このためにこそ生き、このため以外には食べないと、おれは誓った。」

「しかしこの高揚は長くは続かなかった。ムラの日常はあっさりと舞い戻ってきた。あれから一年も経たないうちにおれは、何であんなことが自分にできたのか驚き呆れている。ああいう境地というか世界というか、そこに飛んでしまったという実感は残っている。しかしそれは何かしら思い込みの極点、その果てに生まれた一種の妄想の輝きのようにも思えてしまう。」(小説「小さな手術」)



  この背景については特に詳述しません。ただここで、これまでやったことのない宗教儀礼に近いセレモニーは、同時に生まれた原典音読、唱和とともに私にはかなりの違和感がありました。しかし選ばれた以上は受け入れ、それにふさわしい内容を必死に考えたと思います。
 そしてここで改めて「理念」というものが持つ宗教的作用、いいかえれば麻酔的作用について自分で驚いています。さらに特講について現在納得している「けんさん」という意義とはちがって「自他融合」という当時の私の認識にも違和感があります。

  ともかくそのセレモニー全体へのジッ ケンチ再興に及ぼした貢献、それはS体制の盤石な体制強化につながっていったはずです。それこそ今ふり返れば、反転への真っしぐらな動きの始まりだったはずです。

  ただこの時点では私はもちろん、指導中枢のだれもが「反転」どころか理想・発展の道筋を寿いでいたはずです。先述の「<反転する理想>とは、<反転する人々>によって生み出された」という認識は、もっと正確にいえば、<反転するという自覚、兆候に無自覚だった人々>というべきかもしれません。しかし当時の誰しもそうだった(いや、こういうセレモニーをヘンだと憂えた人もいた)と思います。ともかくただただ結果論でしかありませんが、現在の時点で微細な兆候とも向き合い、究明していくしかありません。

 そしてそこでの私の「多少違和感はあるが、やる以上は自発的にしっかりやる」という姿勢が、まず着目されるべきでしょう。違和感はなぜ解消されるように突き詰められなかったのか。また「やる以上はしっかり」というなかに、ある種の不自然、無理はなかったのか。またそこに何かしらプライドめいたものはなかったろうか。

ともかくこれらの兆候への無自覚、無反省が以後の「反転」を無自覚に支える姿勢として続いていったと思います。ただ無自覚といっても、そこに私自身の自己思考を経ての自発的行動の余地が残されていなかったのかどうか(たとえ状況変化や外圧その他がなかったとはいえないにしても)という観点を失いたくないと心しています。


2016/8/26



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(16) 反転しなかった理想の模索  「無所有」

 「反転する理想」の極大イメージまで到達して、ようやっと「反転しなかった理想」もあったのではないか? という問い(「反転する理想、10」)にもどる。

そのような命題の一つとして、私の脳髄にずっと格納されてきたのは、「無所有」理念のことだった。この「だれのものでもない」という理念が届く範囲は、端的な要素としては「貨幣とモノ」「貨幣と労働」「貨幣と人間」を分離させ、それ自体を鮮明に表出させるある種画期的ないし革命的な認識に至る。

このことは実顕地の標識「金の要らない、仲良い、楽しい村」の中でも最も特徴的な<売り>の要素であり、近刊の広報書では他のどこにもないユートピア性まで暗示させていた。私が取り上げてみたいのもその角度からであるが、問題はその実際面である。もっと全体像を把握してからとも思うが、やはり初期中期の参画者のほとんどがぶち当たったことだから先に触れる。それこそ無所有理念のマイナス部分ともみなされても仕方がない<前科>のことである。

上述の「貨幣と労働の分離」を平たくいえば「ただ働き」のことになる。この実際の体験は回顧してみればおそらくとてもきつい内容であって、いわゆる<夜討ち朝駆け>の長時間労働だった。ひとにもよるが、それはほぼ78年は継続したのではないか。いわゆる実顕地建設の元入れとしての鶏舎建設とその運営のためだった。その間かなりの離脱者を目前にしながら私がそれを耐える(いわば慣れる)ことができたのは、「ボロと水でタダ働きを」覚悟した<主義者としての燃焼力>とたまたま体力がついていたからであった。

ところが実は私の参画の最大動機も、その「無所有」だったのである。それほどその理念は私にとって<原子価>が高く、のちの肉体的なシンドさも本来の「無所有社会」建設のための土台造りだと納得していた。ちなみにさらにのちにかかわった学園づくりのために私はよく誤解されるが、私には学園づくりはあまり念頭になく、ただ現職教師体験から「教えることなき場づくり」を期してのことだった。

私自身は学生運動で洗礼を受けたマルクスボーイであり、その流れからヤマギシの最初の印象は「共産主義の現実体」であった。ただその感覚は、既成左翼の社会主義観(階級闘争、私有財産否定、国有)や新左翼の悪しき党派闘争などの先をにらんでの、むしろ空想的社会主義に近いかもしれない。

ここで、これも微妙な出会いというしかないが、私は3年前村岡到「ユートピアの模索――ヤマギシ会の到達点」(ロゴス社)の取材を受けている。微妙なというのは、そこで村岡氏の社会主義者としての経歴に私との多少の類似点を感じたからである。彼が2013年直前に見出したヤマギシ観は、おそらく私が1973年特講ころに見出したそれとほとんど変わらないのではないか。それは、彼のその「無所有経済組織」についての記述が、賃労働の廃絶、労働と分配の分離等の社会主義的理念を彷彿とさせているからである。ただその発見の時期の懸隔があまりにも大きい。彼はそこに未来へのユートピア的希望を語っているのに、私はすでにヤマギシ教育部門の惨憺たる結果から受けたダメージで、ヤマギシへの希望は虚妄としか思えないのである。

その感想は別稿(左資料編「ジッケンチとは何だったのか」)に譲るとして、ここではもう少し私自身の軌跡を続ける。私がヤマギシに触れて最初に直感した「共産主義の現実体」というのは、実は私の当時の認識では「若きマルクス」から発しているとふり返る。その一端はなぜか長田弘「草稿のままの人生」にそのまま記載されていた。

――たとえば/なぜわれわれは、労働の外で/初めて自己のもとにあると感じ、/そして、労働のなかでは自己の外にあると
/感じるのか。労働をしていないときに/安らぎ、なぜ労働をしているときに/やすらぎをもてないのか。――あるいは。
/人間を人間として、また、世界にたいする/人間の関係を人間的な関係として前提したまえ。/そうすると、きみは愛をただ愛とだけ、
/信頼をただ信頼とだけ、交換できるのだ。/もしきみが相手の愛を呼びおこすことなく/愛するなら、すなわち、きみの愛が愛として
/相手の愛を生みださなければ、そのとき/きみの愛は無力であり、一つの不幸である。――」

これはいわゆるマルクスの「人間疎外→賃労働への懐疑」の最初の意識化であり、のちの「使用価値」のみではない「交換価値としての労働力」という認識につながっていったと推測される(著述としては「賃労働と資本」「資本論」)。

もう少し敷衍すれば誰しも子供心では、親たちが朝から仕事に行くのは、まさに家族に給料(対価としての)を運んでくるためであった。そして世の中は「働かざる者食うべからず」という鉄則で成り立っていると考えていた。しかしそこにメスを入れた人が、少なからず存在していたにちがいない。山岸さんもそうだったはずである。

私が初めて参画した北試(別海試験場)で、上の詩のすべとはいわないがその肝心の部分をかなり実感していた。体力不足で不慣れで、しばしば疲労困憊した現場であったが、私は次第に適応していた。そしてそこではまさに「労働がやすらぎ」になりうることを体感した。そこでは直接の労働強制や、「マイペースでなく一体ペースなる」鼓舞もなかった。働かないものも悠然と食堂で食っていた。またそこは多くの実習生によっても支えられてもいた。

職場が少なくママゴトめいたものではあったが、「自動解任」もあって希望の職場に投票した。当時は物も金も乏しく不便もあったろうが、私は金の要らない暮らしは決して不合理でも不条理でもないと感じていた。私はムラ離脱後、この2年(1976から)に満たない記憶を取り戻したくて「働かざる者食ってよし」というあからさまなタイトルの小説を書いていた。のちの実顕地実態とのあまりにもの違いが念頭にあったからである。なんのメモのなかったが、まとまったのは不思議だった。

その後、三重に異動し実顕地造成期の混沌に直面した。しかしそこでも導きの糸があった。ここで「無所有」理念から外れるが、今でも記憶の底からほんの時折湧き出てくることばがある。

大きな鶏はたくさん食べてたくさん産み 小さな鶏を決して責めません
小さな鶏は少なく食べて少なく産み 大きな鶏を決して羨みません」

見出そう自分の良さを、引き出そう相手の良さを、
合わせよう互いの良さを、そこで味わう一体の良さの良さ」

雲となれ、龍おのずから来る」

これらは誰が編み出した標語なのか知らないが、私はある真相を穿っていると感じる表現レベルを今でも感じる。おそらく養鶏法研鑽会などで流布されたことばであろう。しかもその活用方式は「べき」の体得次元ではなく、「味わう」の認識次元を超えなかったのではないか。のちに頻発したうんざりするような唱和次元とは異なっていたと推測する。

 そんなわけで今回はこれまでと違い、かなり気持ちが和んでいる。良さを見出そうとする姿勢が生み出す自然流路であろうか。おそらくこういうことばが生まれる環境あるいは土壌というのは、「われ」と「ひと」とが対であるような、よくいわれていた「一列横」の関係を暗示させる。

それがいつしか「上」「下」の関係へと推転し、沿う、合わせるなどの<態度>への取り組みに推転していった。そこに「引き出そう相手の良さを」の心が、あるいは「雲となる」心が託されていたかどうか、思い出すことができない・・・その前の時期に匹敵することばにも出会っていない。

そしてそれがなぜ? という問いになる。その発条と帰結が、不審や反省やオロカさになってしまう。その必然を断ち切る、あるいは超える隘路がどこかにあるはずと感じながら。しかしそれもウソではない以上続けていくしかないのであろうが。

2016/8/13



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(15)<理想大反転>の歴史的考察  ニイルの「理想主義」否定から  

またまた自分になじみ深いアンビバレンス ambivalenceという感情を意識する。先回、「理想する」という発想を肯定的に取り上げながら、他方ではそういうものに魅入られやすい人間タイプを(どちらかといえば)否定的に取り上げている。まさに《正反対の感情の共存》である。この流れは、それ以前の「主義者」存在を否定的に取り上げるのと同じ流れになる。

少々ややこしいが私としては<正反>同列の事実表現として提示するしかない。ところで今回とりあげるニイルという人は「理想主義」全体を否定するのである。「理想する」や「主義者」などの区分けもない。以下のように。

「私は、高尚な動機というものを認めるのを拒否する。人々の魂を救いたいという神様のような願望とか、世の中をよくしようという決意、といったものを認めようとは思わない。私がこういうものを拒否するのは、こういう高尚な動機をもった人たちが、ひとりひとりの人の持つ自己興味を認めようとしないからだ。ほんとうに神のような人物には、きっとお説教をしているヒマなどないにちがいない。そういう人は、きっとミツバチを飼ったりキャベツを育てたりするのに忙しいのではないだろうか。」(「問題の子」198p

私はこれまで、子育て及び<学育>の観点から、「自己興味」という発想に多大な関心を抱いていた。したがってこの説は、ひととしての生き方・在り方を強調するあまり、しばしば抑制されやすい個の嗜好を擁護するにおあつらえ向きな内容だった。

ただ後で気づいたことだが、これだけでニイルの「理想主義否定」を取り上げるには表層的な気がした。前後を比較しながらやや丹念に読んでいくと、この考え方にはさらに奥がある。それは、ヨーロッパにおける伝統的なキリスト教信仰、それも各地、各教区、各家庭までも浸透した内容にかかわる。その核心は「原罪」という認識にあるらしい。

「結局のところ、原罪というものはあるのかもしれない。しかしそれは完全を求めるという罪である。あるいは理想を追求する罪といってもいい。アダムは善と悪の知恵の木の実を食べた。つまりアダムはみずから善と悪に基準を作って、その結果、道徳家および理想主義者になってしまった。理想主義は人類にとって<のろい>である。理想主義がこの世に不幸をもたらしたのだ。不道徳を生み出すのは理想主義である。子どもが自然に成長するのを認めないのも理想主義である。理想主義は、温室の中で子どもを育てようとする。」(「問題の子」20p

 どうもこれこそニイルの「理想主義否定」の根幹のようだ。その否定の対象は、もっと限定すれば「キリスト教的」理想主義ということになるだろう。のちの展開につながると思われるので、このことをもっと具体的なイメージで紹介したい。

この学校には、セックスやその他のことについて、自責の念を抱いた子どもがたくさんいた。朝の講話は、ひとりひとりの子どもの罪の意識を増幅させたにすぎない。牧師はキリストの声に耳を傾けよという。キリストの声は、それぞれの子のなかにそなわっている。ところが実際には母親が『いい子になりなさい』と教えた時から、子どものうちにあるキリストの声は上手に抑圧されてしまったのだ。キリストの声というのは、『あなた自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』という声であるにちがいない。しかし神が与えた本能を抑圧することによって、母親たちはわが子に自分自身を憎むように教えてしまったのだ。自分自身を憎んでいながら、他の人を愛することなどできるものではない。私たちが他人を愛することができるのは、自分自身を愛せる場合に限られる。(「問題の子」20p

私がまず驚いたのは、ニイルはここでキリストを否定していないことである。彼が無神論者であったか、なんらかの信仰を抱いていたかは知らない。しかし彼はキリストのことばとして、隣人愛を強調しているのである。他方、牧師や母親の言葉は子どもらの自責感や罪意識を「増幅」させるだけであった。それが「自分自身を憎む」ことにつながるという。

そして終わりの下線部分のことばの示唆するものは、ヨーロッパの教会、家庭という限定をあっさり超えてしまう。というのはそこに、私がこの間痛みとして刻印されてきたすべてが包含されていると感じる。個別研で自己信頼感を崩された娘のこと、その後彼女が20年を経て吉野弘の「自分を愛する」ということばを獲得したこと(6学園の実態に無知だった親の<心の決済>)。

また体罰を受けた子どもらの憎悪と<自分はダメ人間>という自己否定感覚 、これはニイルのいう「自分を憎む」という感覚にもつながるだろう。それは「罪」意識と一体となることでもっと強さと固着性を持つのではないか。

 ここでようやっと、ニイルの「理想主義否定」は実は「反転する理想」の結果ではないか、という私の予測に立ち入ることができる(前の引用は直ちに以下につながる)。

「『何ですって!』と道徳家は大声を上げるだろう。
『聖○○○といわれる人や殉教者たちは、みな間違っているとでもいうのか。キリスト教は悪だというのか。』
たしかにキリスト教は悪である。しかしキリストは善であった。
『生きて幸福になりなさい』とキリストは教えた。
『道徳を守れ。そうすれば幸せになるだろう。』とパウロはいう。
『幸福になりなさい。そうすれば善良になれる』とキリストはいった。
『善良になれ。そうすれば幸せになれるだろう』とパウロはいう。
パウロの声はたたえられているが、キリストの声は無視されてきた。キリスト教は今ではパウロ教になってしまっている。」
(「問題の子」21p

 ここで括目するのは、「キリスト」と「キリスト教」とははっきり分離されていることだ。同時にここでニイルの「理想主義否定」の対象がキリストではなく、「キリスト教」であったことが明かされるのである。なるほどこれなら解る。しかしここで想定されているパウロ教(いいかえればキリスト教)はキリスト自体のことばとなんと対照的なことだろう。単なる懸隔ではなく、まさに善悪とまで逆転した、それこそ「理想の反転」そのものなのである。

しかもこういう捉え方は現代からの歴史的考察としては決して奇異ではない。私がこういう認識の圧倒的洗礼を受けたのは、ドストエスキーの「大審問官」(「カラマーゾフの兄弟」所収)からであった。そこで展開されていたのは、ローマ帝国と合体したキリスト教(いわゆるローマ・カトリック)、いいかえれば原始キリスト本来の教えを変節した「パウロ教」がいかに登場したのかについての、壮大な史的ないし文学的ビジョンだった。

 「こころの貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである。」と説いて「天上のパン」を約束したキリストに対し、大審問官は「地上のパンに容易に屈服する民衆」を対峙させたのである。この論理展開は実に知的好奇心をスリリングに刺激する。そこで私が着目するのはいわゆる大理想が変節ないし反転していくのは、歴史的に必然的な根拠があるということである。もちろん「大審問官」はフィクションであるが、ドストエフスキーは現実の歴史分析から多大なインスピレーションを享けているように思われる。

それは<導きの理念>―<地上のパンの支配権力>―<民衆>の対峙と相克の中から民族国家形成を成し遂げた過程に、ほとんど該当するだろう。その現代における巨大な事例は、ロシアにおいてマルクシズムがスターリニズムに変質・反転していった過程にも見出される。

  さらにそれは小規模であれ、宗教も含むあらゆる理念的なものが、地上現実に根付き、発展する(あるいは崩壊する)過程にも翻訳可能であると考える。
そして残念ながら、あるいは悔しいが、ヤマギシズムもその道を辿ってきたのではないかというのが、私の見込みである。そしてあれこれ想像をたくましくもさせられる。ヤマギシズムが現在は何イズムに転化してきているのかどうか。また山岸巳代蔵の精神は今やほんとうに形骸しかないのかどうか。

形骸だけでも理念創始者を祀り上げることで延命可能だった運動・組織体も多い。さらにそれらの画策も含め総体として何をかち得ているのかどうか。理念は見えなくなり、かつ反転したとしても、そのことによって多くの人々の生活と生存を保持できることは、やはり意味あることだと思うけれど。

そんなわけで、今回「反転する理想」という規定が描写する客観情景に、かなり歴史的根拠がありうることを感じた。とはいえ、かつてそういう情況下にあり、かつその1員としてそれらを支えた私(たち)が、同時にそのような巨大な必然を切り抜ける<隘路>を模索する――そういう機会が、偶然にも訪れたのではないかとも思える。そこに、これまでなんらかの関わりがあった私(たち)という主体の確立と当為がイメージされることが最大のねがいでもある。

  やはり時には、こういう大情況を子細に見据えてみることも必要なことらしい。

2016/8/4




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14) 「理想する」ということ さらにそれ以前の<参入物語>

「理想」ってやつは意外に根が深い。簡単に掘り出せそうだが、まだどこか別の根が張っている。私は今では「理想」なんてものはどうしようもないものだと断定したいのだが、どこかすっ飛ばしている部分もある。例えば3月ごろの (4)「時を経て必ず表れるもの」での歌句。

 不都合な真実隠す営みに 理想いつまで凍えたるかな

 いったいこれってなんだ。私はどっかで「理想」を希求してやまないことを告白してもいるのだ。「凍えない理想」というものをどこかで想定し、今もその感覚を温存していると思う。これはこれまで幾百と閲してきた(理想的な)「理念」そのものを指してはいない。しかし「理想」そのものが生み出されてくる過程のイメージを念頭に置いている。

この過程を、単なる概念的理解と区別するために「理想する」(あるいは「理想する営み」)と表記してもいい。したがってその営みは「ひと」であるかぎり誰にでもついてまわる属性にほかならない。それは蜘蛛の巣のかかった個室の窓辺からも始まるものだが、そこからの目立たない執念に満ちた長い営みなしには、理想なるものはこの世に登場しなかった。

しかし私たちが遭遇したのは、そのような理想の変質であり、場合によってはその反転だった。またしても1960年代学生運動挫折時期に刻印された埴谷雄高のことばである。

「いったい、前衛とは、何か。或るものが大衆のなかで前衛として先頭に立つのは、彼が認識者であるからに過ぎない。彼が前衛として示しうるのは、一に理論、二に理論、三に理論、それは常に理論に始まって理論に終わる。……したがって前衛自体が巨大な力だと錯覚したり、また、前衛の組織のなかに認識がなく序列があるだけだったら、これは滑稽で、さらに愚劣でもある。」

(「永久革命者の悲哀」)

 私のヤマギシ参画の動機の一つは、そのような危惧がヤマギシでは払拭されうるという期待からであった。いいかえればここでいう「理論」とはヤマギシでの《知恵と理解の研鑽》に相当すると考えられるし、「前衛」とは全人幸福社会を《人類に齎す》という先駆け意識だと考えられたのである。

しかしその実顕地造成運動の渦中で、私にはリーダーのS氏が「段取りは研鑽に沿い、メンバーは段取りに沿う」という定式をされた記憶がある。その頃のS氏にはまだしも段取りという限定だが「研鑽」が念頭にあったし、他方ではすでに一般メンバーとは「沿う」人々として把握されていた。のちにその大部分の人が、いわば「理想する」力を認められず、<沿うのみ>の人となることによって、ヒエラルキーが完成する。それこそ埴谷の言う「組織のなかに認識がなく序列があるだけ」ともいうべき実態だったと想定できる。

これまでの私の「理想主義」思考の流れからすれば、それこそ<理想が終焉>し、思考を他者依存する「主義者」の時代になったと考える。そのことによる閉塞感が私のムラ離脱の最大動機なっているがゆえに、私の「理想主義」評価はどうしても低くならざるをえない。

ムラ出以降の私は、<理想主義の全面的相対化>への道を歩む。普通に世間に暮らす一介の庶民からすれば「理想主義」というものはどう映っているのか? それはどうしても特殊な少数派の道であったことを認めないわけにはいかない。

なぜあんなにあこがれて「理想社会」なるものに飛び込んだのか? あえてそういう<過激な>ものに人生自体を賭けてしまう人間(私も含め)というのは、かなり変わっているか、ひょっとしたら病的な部分もないとはいえない。もっとも<少数派の選民意識>というような感覚はなかったと思う。子どもが二人もいて教師を辞めるというのはもっとドロドロしたものが経過する。

そこで考えてみたいのは、あくまでそのことの是非・評価は問わず、そこにどういう私的・状況的・論理的必然があったのか。そこを私自身の体験に照らして問い直してみたいのである。その手掛かりめいたものが少し見えてきたように思えたのは、高等部入学後たちまちムラを出ることになった息子についての手記(「息子の時間」)を書いている時だった。

--―これがおれの優柔不断の物語である。だからおれはずっと自分がなにをやりたいのか考える必要も機会もなかった。寺に弟子入りした後は寺務と受験勉強で忙しかった。そのおれの唯一の欲望がようやく姿を現した。坊主にだけはなりたくなかったのだ。はじめて既定の運命、周囲からの至上命令を拒否した。
 そして北海道に飛び出し学生運動をやりだして、初めてこれがおれのやりたかったことだと思い知った。それ以降、やりたいことがあるからやったというより、やってみてはじめてやりたいことが分かるという感覚が続いた。それまでは欲望がはっきりせず、なにかを新しくやることに異常に慎重だったともいえるが、逆にどこかとんでもなく無謀で大胆になることがあった。」

 この私の「優柔不断さ」とは、小学校高学年の頃から意識されていたもので、おそらく私の態度決定に先行する父のガミガミの頻繁さが原因のようであった。

「その平衡感覚への不安がおれを性急に大義名分に、理論に向かわせたのだろう。そう、自分がしたいことをはっきりできない子どもは、たぶん本質普遍性や理念に向かうのではないか。おれの場合、マルクス主義だのGイズムなどの。それは世界の全体的な把握を可能にする見取図を得たも同然で、だからおれは長いことそれらに安堵し安住できてきたのだ。しかしその図に入らないなんと多くのことが端折られ零れ落ちてきたことか。いまここに至るまで息子のことが圏外にあったも同然なのだ。」

「奇妙なことにその空疎さを告白するかのように、どちらも『実践』『まずやってみる』を強調しているのだ。それも自分の個別的な欲望を疎外する方向で。それが現実の些細なことに『どうでもええじゃないか』という感覚、さらに自分の嗜好への強いられた鈍感さに補強されて。」

 もちろんこれはあくまで仮説にすぎないし、主義やイズムに向かうだれもがそうだといえるはずもない。しかし、なにか一つの手掛かりを発見したように思い当たってくる。特に最後の部分はニイルのいう「自己興味」の部分に関わり、人間個別の欲求・嗜好の抑圧の問題までつながってくるように思う。

「ところがおれは、自分の優柔不断を逆手にとって自己に向かうのでなく、つまり自分の欲望を問う方向でなくその即時的解消に向かって、自己から逃亡し続けてきたような気がする。」

 これは青少年時の自己教育の方向が、受験勉強一般なのか、個別の「欲望」の開発、練磨なのかの、いわば永遠のテーマにもなりそうである。

2016/7/30


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13) 理想「主義者」ということ
 
なんだか奇妙な感じがしてきた。気がついたら、時めきが続かなくなっている。
そんなはずではなかったが、どうもどこかで気の乗らないことをやっている、どうも人を裁いてる感じ。理由はわかってきた。
あのタイトル「反転する理想」のことだ。これはずばり、自分なりにすばらしく感じて、いわば時めいて付けたタイトルである。そしてこれはまちがいなくある客観的状況を指している。その中に私もいるはずだった。しかしどうもリアリテイーを感じなくなってきた。
「理念とちがっているよ」と言ってるだけだ。そんなこと誰だってできるし、している。
問題はどこでどうなってそうなってきたのか? 私がそこにどのようにかかわってきたのか? 言ってしまえばそれだけのことなんだが・・・いやそうなると延々と理由―背景が並ぶ。それもある程度は必要だろう。しかしそんなことをしたいわけではない。ただねがうのは、その心的なリアリテイーとそれによる決済だけだ。
「ちがっているよ」というフレーズは、くりかえされると指摘になり、裁きになる。
自分に問いかけているつもりだが、あまり入ってこない。そういう状況を作った人々は別にいるという思いがどこかでもたげる。
そのうち理由ははっきりしなかったが、その前の「理想とはいったい何だろう」という伏線がもたげてきた。考えているうちに少しばかり見えてきた。
そう、私は紛れもなく「理想主義者」だったのだ。「反転する理想」とはまさしく「理想」を失ったわけではなく、「理想主義者」が寄ってたかってうみだした毒だったし、膿だったのだ。
端的に言おう。「急進Z革命のために」「不都合な真実はとことん隠す」とは、一般に暮らしの中で普通に理想のある生き方をしたい人にはできることではない。「主義者」だから、すなわち24時間そのために生きているプロ集団だからできることであった。
それでいささか焦点が合ってきた。
もちろんこの「理想主義者」とは、上述のようにマイナスイメージとしてのそれである。
少し寓話的になる。いわばその「理想」自体の意義、真偽は深くは考えず、ただその運動・組織の現状を護持するために、どこか<上>からの指示を受けて全力率先、行動する人々のことである。簡単にいえば大義に殉じて行動する「行動隊」だった。私にはヤマギシ反対派への○○メンバーによる総決起集会の記憶がある。
あえてこういう現象部分を分離してみると、残念ながらそれは私にはなかったとはいえない。「そんなつもりはなかった」と内面まで語れば切りはない。手段を択ばず行動するとまで考えたわけではないが、そういうメンバーとも心情的に深くつながっていた気がする。
いいかえればその理想とは「イズム」であり、自分たちは「イスト」であると信じていたのである。しかしそれは本来のイズムやイストとはすでにどこかちがったものであった。当時はそこまでは気づいていない。おそらくそのイズムの生命線たる「けんさん」はすでになく、もっと低レベルの似て非なるものに変貌していた。
しかしその<変貌>以前に私たちはイスト=「主義者」であった。それをもっと深く考察できる人間学的観点がどこかにないものだろうか。私の心当たりのイメージはやはり「時空遍歴」の初期に取り上げた埴谷雄高の認識につながる。やはり正確にイメージしていただくために引用に頼るしかない。
「政治を政治たらしめている基本的な支柱は第一に階級対立、第二に絶えざる現在との関係、第三に自身の知らない他のことのみに関心を持ち熱烈に論ずる態度である。自身の知らない他のことを論ずるために、私たちはまず他人の言葉で論ずることに慣れ、次第に自身の判断を失ってしまうのが通例であるが、この他人の言葉を最も単純化した最後の標識は、さて、ひとつのスローガンのなかに見出せる。私たちが他人の言葉によって話すということは、もちろん、他人の思想によって考えていることであるが、そこからつぎのような現代の構図をもった悪しき箴言を引き出すことができる。
 スローガンを与えよ。この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩く。」(埴谷雄高『幻視の中の政治』1960年)
 ここにあるような構図はもちろん最初からではなかった。ヤマギシ理念体験の始まりは、いわゆる従来の<勉強スタイル>とは、まるでちがった「特講」だった。それは<自己思考>とそれによって得た<実感>を手放すことがなかった。これがいわゆる「けんさん」の真実との最初の出会いであり、さらにはそこでの打てば響くような集団での思考の叡智とでもいうべきものに、私はすっかり共鳴、かつ幻惑されたのである。
ところが参画以降、何かがちがっていた。その後、ふり返ればヤマギシの「実顕地」生活は、経営の成功と教育面での一時的な成功を除いて、肝心の精神面では「特講」をピークとする幻滅の歴史であった。しかし「理念の体得」だけは実に真面目に取り組んでいたのである。あの時、あの先により深まると期待されていた<自己思考―実感>の世界は、いつしか他者思考、理念盲従、ヒエラルキー閉塞社会に化していた。現在の私は、山岸巳代蔵氏がそのような社会を構想していたとは、まったく考えられないのである。
そのような実態に気づかないままの時間こそ、私は「主義者」であったとふり返ることができる。係暴力だ、その隠蔽だ、変質だ、理想の反対物だ…などというのは、ただの現象に過ぎない。わたしたちが「主義者」に転じて以降、いくらでも可能なことだったのである。
そのいわば「主義者」であることに疑問を感じた人々はそこから逃げ出し、あるいは飛び出して、ある人々は異なるイズムを探し、私などは「イムズはもうごめんだ」と一介の市井庶民として生きてみようとした。またジッケンチに残った人々はおそらく今はそのソフト「主義者」になられておられるのだろうか。またそのなかでも真にイズム、イストたらんとめざしている人もおられると思う。
その動きは、したがって個々の指向、気質、その他の偶然的なものによるだろう。それぞれにかつての「理想」がなにゆえに変質し、似て非なるものに変わり、あるいは反転したのか、それぞれについて考察し、証言できる何かがあるにちがいない。
私はこれまで、自分の置かれた場でなしうる考察と証言を、それなりに提示してきた。
そして先回、私は「集団生活における理想のありよう」や「人生コースにおける理想のありよう」について考えてきたことを紹介した。
私の「理想」認識の基本はそこにあるように、人が「理想主義者」として生きることは「人としての普遍的な目標にはなりがたい」ということになる。それを私は人類の未来にとって慶賀すべきことだと考える。もっともそのような<特殊な生き方>をしたがる人々は今後も絶えないだろう。
なぜそうなるかは、もう少し続き物で考えてみたい。その一つが、理想というものに魅入られていく人間の資質、タイプの考察になる。もう一つはニイルの言う「自己興味」の観点からである。私たちのこの<特殊体験>が未来の貢献になりうるとすれば、こういうことへの真っ正直な究明から始まるのではなかろうか。
2006/7/21
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12)「理想」というものをどのように承知していたのだろう?
私が今直面しているのは、思いっきり大ざっぱに断定してしまうと「反転する理想」というものに直面しながら、改めて「人」として「親」としてのありようを模索しようとしているということ。そしてそれが子らの将来に何らかの貢献にならないだろうかとも考えている、ということになるでしょう。しかもその「理想」の渦中にかつて私ら自身も存在していたし、現在もそれに対しそれぞれの<距離>を置きながら存在し続けていると捉えています。
このことについてはじめに少々お断りしておきます。当然その対象は学育面が主になっていますから、この「反転」という表現は、学育以外を含めればいささかオーバーだと思われる方もおられるでしょうね。しかしこの学育はいわばその激浪の先端であって、ジッケンチの全体制がそれを成り立たせていたと考えられます。しかし他方一見そうは見えない――?いいかえれば「理想そのまま」に近い分野が残されていることも否定する気はありません。特に私に気にかかっているのは、いわゆるムショユウ、「金の要らない」世界のことです。それで先々回の文章で思わずそのことに触れていました。
このことはいずれ記述したいのですが、それ以前に私にはヤマギシの「理想」、さらにいえば私自身が「理想」自体をどう考えてきたのかという大きな伏線に触れる必要を感じてきました。それで私はまずいわゆる「理想とはなにか」という観点で少し昔話をしてみます。
 少々気恥ずかしいが、実は4年前、このHPのはじまりのタイトルも「理想」へのコメントから始まっています。曰く。
「理想というものに魅入られてのち、その挫折を知らないという人は少ないのではないか。それはどこか恋の始まりと終わりに似ているかもしれない。もう二度と恋なぞしたくないように、二度と理想の顔なぞ見たくないのである。そこに投じられた膨大なエネルギーを伴う全身的な自己投棄、その後に残る虚脱、幻滅と痛恨。したがってその問いかけも悲痛である。『何でこんなことになってしまったの!?』・・・」
 いうなれば「挫折」は理想に付随する不可避のイメージだったのです。たしか80年代前半、実顕地の農製品加工部門が確立、供給部門が急成長しました。またそれとともに子ども楽園村も拡大し、学園づくりの基礎ができ上がりつつあった時です。当時シンマイ経営者として経営研に参加していた私は、その研鑽会の中心にあったS氏の語りを聞いています。「こんなに上手くいっていいのかな・・・」というのです。それは多くは肯定の喜びとわずかな危惧を交錯させたものでした。
それから10年、学園づくりを含めた成功に次ぐ成功の流れが、係暴力問題を発端として一挙に頓挫し始めたのです。状況は単なる挫折どころか、脱退者増などあれこれ見られたような転落状況が続出しました。なんとモロイものかという慨嘆が尽きることはありません。やはり理想というものはこうなってしまう宿命なのか、と。
のちに暴かれてきた内情も含め、あまりにも理想が高すぎたのか? あまりにも現実を超越して純粋すぎたのか? だからこそ理念への変節も、裏切りも、いわば当然やむをえないものであり、理念・理想への<反転>もそれほど珍しいことではない・・・それらは数少ないが理想型の運動には付き物のようなものだし、<反転する理想なぞ今さら仰々しいではないのか>という奇妙な納得も掠めています。
しかし、このことは事実として私たち親や大人だけでなく、多くの子どもらの心にも刻んでもらうしかないという思いがこだまします。その子個々の事情によって方法は異なるでしょうが、そのことを原点の一つとして将来構想を築いていくことを避けるわけにはいかないと思います。他方そのこと(反転の可能性も)をすでに了解事項として、乗り超えてきている元子どもらもすでに多いと思います。
以上はあくまで「理想」というものは必要なものだという前提からの語りのようですが、他方では実は理想なるものは不要なものであり、その不要なものに魅入られ、巻き込まれてきたのではないかという考え方もあります。というのは、われらはなぜか理想なるものを受け入れて活動してきたわけですが、実はこの世でそういう人というのはごく少数ではないでしょうか。(直接に理想社会建設を目指すという観点から、巨大宗教の信者は除く)
私はムラ出以降、理想(理念)というものから全く隔絶した生活、市井の一庶民として暮らすことを通じて、従来の理想観は全く変わってきました。その一端を少し紹介します。
「しかしいまの自分を捉えている意欲は、生存への欲求という純粋に動物的な危機感から発していた。そしてこちらの方が、なにかしらウソがないようで落ち着けるのである。その貧しさ、危機感がベースにあり、そこに自己保存というエゴと他者への愛という葛藤を経過するからこそ、仲間たちとの間で物や金を贈られたり贈ったりする嬉しさは格別心に沁みるものがあるのだろう。Y会創始者のいう『他の悲しみを自分の悲しみと思い、自分の喜びを他の喜びとする』というコトバはまさにYのムラよりも、ここでこその実感だった。それは取組みのちがいというより、場のちがいが大きいのではなかろうか。
,,,Y会での『全人幸福』とか『ひととともに』とかの理念の実践はどこか空疎で、理念のための理念を思わせた。理想に向かう姿勢にウソがあったとはいえないが、どこか上げ底の気分で、なにかしら心許なかった。たぶん現実に根拠を失ったその分だけ、自分たちこそ理想を実践しているという、思いこみの世界にまどろむことができたのであろう。そして実際の局面として献身すべき『ひと』の対象は組織の現路線とその指導的リーダーにすり代わっていた。そこに『沿う』『合わせる』『批判の前にまずやってみる』などの実践綱目が入ってくると、それは容易に一枚岩の密集集団に変質する。いま距離を置いてみれば、それもまさに心をアリに変える営みであり、その結果としてのアリの暮らしに見える。」(番一荷「にわか老後」より)
「そもそも理想、大義、真目的なるものへの参画と称し、人生の総てを最初から(あるいは中途からでも)自縛・他縛するようなことは、どこか虚偽があると思うようになった。その流れは必然的に子どもの未来をも束縛するのだ。(中略)
 ただ思想・理念上の選択ではなく職業選択や仕事についていえば、生涯を一貫するということは、将来予測はどうあれ、大いにありうることはいうまでもない。それは30年先までのローンを組んでマンションを購入する庶民の決断をバカげたことだとは思えないのと同じことである。それらは結果からみて、一生を理想主義的団体に投じた“選ばれた”極少派よりもずっと賢明だったのだ。
 ところがどういう神経と生理の働きであるか、私(たち)はそれを掲げる集団をやすやすと<信じて>参画した。こういうことは普通庶民の知恵からは起こりえない。一歩一歩自前の灯りで足元を照らしながら前進し、その進度に応じて将来の夢が膨らむ。それに付き従っていくだけでよかった。ところが他人が打ち出した壮大な夢に幻惑され、そこに早急に飛び込むのは自殺行為、(で大げさであれば)自己喪失行為になるしかない。」(福井「ジッケンチとは何だったのか、2」)
そのような体験状況下で、私は「理想」というものへの新たな問題意識に立つことができましたが、その趣旨を今回の新HPのトップページに「立ち戻りたくなることば」①②として掲載しました。その内容紹介も含め次回に続けます。
2016/7/15
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11)「過去」から「情況」へ そして子どもらの未来へ


先回の長ったらしい文章で、私は自分なりに一歩を踏み出してみようとしました。あるいは踏み出そうと押し出されたようにも思います。それはきっかけとしては、30年前のわが子の思いや実像をまったく知らなかったオロカな親の姿という自覚です。それこそ私自身への私の自問の帰結であったわけですが、いうまでもなくあの子どもら世代自体の当時の暮らしの総合的な、かつ優れた表現にうながされてもいたのです。

そこで私は自分(たち)の置かれている「場」というものを改めて、というよりいわば<初めて>意識できたかのような気がしました。30年前のことはもはや遠い過去ではなく、まさに現在そのものであり、それは「状況」(あるいは「情況」)ということばに置きかえてもいいものかもしれない。それによって私(たち)は、過去の一時点にこだわる暗い執念に満ちた孤独な変わり者ではなく、もう少し広い場ともいいうる「ある情況」への参入者になりつつあるのではないか。いいかえれば私には、そろそろ私(たち)という主語の()を外すことが念頭を掠めつつあり、さらにそのことが現在からさらに「未来」への手応えにも通じてくるのではないかという予感すら覚えるのです。

少し場違いかもしれませんが、E・フランクルに次のことばがあります。

「『あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない』・・・(中略)・・・そしてわたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつも現実のなかへと救い上げられている。それらはいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら<ある>ことも、一種の<ある>ことであり、おそらくはもっとも確実な<ある>ことなのだ。」(「夜と霧」)

この「ある情況」への参入ということばに私が託しうると考えられるひとつは、「わたしたち」のなかに、まず子どもらがいて、連れ合いがいて、つまり世代連合としての家族が否応なくかかわってきた現実があるということです。そこから「どういうリアルな認識のもとに家族親愛の再生を育んでいけるのか」が問われてくるような気がするのです。もちろんこの問題は、様々な個別家族の歴史の差異のなかで、安易な一般化は避けなければならないのですが。しかしそれはそれほど容易いことでもないでしょう。くり返しになりますが、先回以下のように記したのも、その心づもりからでした。

「このことの切実さは次のような娘とのやり取りからでした。『お父ちゃんたちは理想を実現しようとしてあそこに行ったんでしょう。それなのになんでこんなことになったの?』 この問いは私自身にも長い時を経て問いかけられ続けたものです。そして帰するところはやはり私自身の愚かさでした。そしてわずかに『こういうことだって何らかの<反面教師>はなるはず』という自己慰安が残されただけでした。しかし私だけのことであればそれでもよかったかもしれない。子どもらに『親の人生が理想と反対のことを、しかもそれが子どもらに多大な負担を背負わせるためにあった』とは明言できるでしょうか。」

 //もうひとつは、このことは子どもらの将来にかかわるという痛切な思いを伴います。もっぱらいわば<過去至上論者>だった私がこういうことを言い出すのは自分でも奇異な感もありますが、避けることができない必然という気がしています。このことはわたしという個の体験で到底済まないどころか、親としてのありようがかかわり当然にも子どもらの未来にもかかわってきます。ここでわたしはあえて「反転する理想」という一見まがまがしい主題を提示したのも、(ジッケンチのありよう、親としてのありようも除外するわけにはいかないが)子どもらの未来のことが大前提だと考えるに至ったからです。あの体験をこそ子どもらはどう受け止め、未来への礎として組立て直していけるのかが想われるのです。

このことは、わたしたちおとなであれば、親としての「主体の回復=ことばの回復」という営みとして果たされていく課題でしょうが、子どもらにはあの子ども時代を通して自らの生き方にかかわる「ことばの獲得」が不可欠の課題となってきていると思われます。それも当然個別の違いがあり、それをもとにして既に新たな人生へのチャレンジを歩んでいる子らもいるようです。

 このことはすでに本HP「(7)ことばを得る(回復する)-- 」という論考において、Oさんが取り上げていることです。曰く「『学園の実態に無知だった親』という表題の視点がいつの間にか進んで、『我が娘に無知だった私』からさらに『私を知らなかった私?どうしてかな?』」と。そして最後に紹介されていた鹿児島俚諺がとても面白かったのでそこから取り上げてみます。

歌は唖(むご)にききやい
道やめくらにききやい
理屈やつんぼにききやい
丈夫やちゃいいごばっかい

意味不明もあるのですが、なんかすごいことを言うてるようだと直感しました。

「歌のことは唖に訊け」「道はめくらに訊け」「理屈はつんぼに訊け」(これら主語は現在ではすべて「差別用語」になっています〉

というのだから、いやほんとうはそうかもしれない、と思う節もあります。

それにしても最後の4行目の「いいごばっかい」がわからない。調べると「丈夫なやつらは、いいことばっかり」という趣旨らしい。なるほど、やっぱり、五感満足な人はしばしばウソをいうのかもしれない・・・

それに対し、「その道から最も隔てられている人こそ、その道の真実に触れている」のではないか、と。

この諺は上野英信の「地の底の笑い話」にあるという。わずかな記憶ですが、「上野」といえば60年安保闘争前後、筑豊の炭鉱労働者の運動の傍らにあった人です。

いくつかの記憶が蘇ってきます。

若い教師の頃、おそらく『人』という雑誌から――〈吃音者こそ、そのことばの音節と意味とのつながりを深く意識している〉

//いつのことか吉野弘詩「最も鈍い者が」から――ただこれはいわゆる<障害者>ではなく、自分自身が歩んできた道への<ウソ寒い疑惑や不信>がそれに置き換わっています。しかし、本質的には同じことでしょう。

人を教える難しさに最も鈍い者が/人を教える情熱に取り憑かれるのではあるまいか」
「人の暗がりに最も鈍い者が/人を救いたいと切望するのではあるまいか」

 私自身は、教師存在のウソ寒さから教師辞職を決意して(教えない)「学育」方式を目指したはずでした。しかし当時全く気づかなかったのは、ヤマギシの拡大に専念できていた時代のことです。「人の暗がりに最も鈍い者が」に今でもぎくりとします。なんと朗らかに<全人幸福>を呼号できていたことか。

                           ★

  そして2016年の最直近では、私は身近なOさん自身の次のことばに直面できていることに、大きく感じるものがあります。巻頭の諺の前のことばです。

『子どもが育っていく=ことばを獲得していく』を思うとき、ことばの奥に潜む実体を、このことばでしか表しようのないようなことばの精緻さにこだわってこなかったなと今思います。ボキャブラリー不足ではなく、想像力不足かな・・・
/じっくりとそのものにむきあって、じっと見つめ、耳をスーとすまして、肌をなめらかにして、そのことを知りたい、知っていこう、感じていこう、そして自分のことばでぴったりすることばで表してみようとしない性急さから来るのではないでしょうか。じっと静かに・・・何日かけても 何十年かけても。」

おそらくそれは私(たち)がかつて感動した「けんさん」ということばの(「仲良し」だの「一体」などという結果ではなく)渦中の真実に触れているような気がします。目のないもののように見、耳のない者のように聴き考え、喉のないもののように歌う・・・

2016/7/7

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(10) 顕れたる「理想」を問う

★一枚の絵から

..このところ私のなかで対象としてきた究明分野の局面が変わりはじめ、焦点がぐんと絞られてきたような気がしてきました。それでHPのタイトルを「反転する理想」とあらため、今回はそれについての思うところを記したいと思います。いうまでもなくあのコミックが生まれて以降の動きということになります。特に娘の<個別研>体験とそれへの親の無知について、私の思考は逃れようもなく取り込まれたままでした。
 ところでその内容に入る前に、今2016年の時点で私がここに置かれ、30年前の娘の実像を知らされている「場」というものの異様さに触れないわけにはいきません。端的にいえば大昔学校の父母懇談会で担任の先生から聞いた、しかもその時点でほぼ了解してしまっているわが子の実像について、わが子の昔の旧友から、あるいはわが子自ら改めて昔は「実はこんな状態だったのよ」と聞かされている親の姿を想像してもらえばいい。私の結論からいえば親がオロカだったというしかないでしょうが、私はこの入り組んだ状況自体をキチンと捉えなおす必要を感じる。こんなことってまず世間的な常識ではありえない<貴重な体験>でしょう。しかも私はすでに老い、わが子は中年に入っているのです。
 そのことの錯綜した時間軸を、私は絵画制作という観点でも考える機会がありました。いや絵は何でもよかったのですが、たまたまHP用に何かないかと娘が昔描いていた絵を眺めているうちに、「顕れたるもの」ということばが浮かびました。はじめは画家も何か「顕そう」として始めたことでしょうが、そのうちいつの間にか勝手に筆が動いたというか、いつの間にか初めの意図とはちがった「こんなことになっていた」という衝撃もあるようです。画家にはそこに面白さもあるようですが、私に浮かんだのは「実顕」という曰く因縁に満ちたことばでした。
 たまたまその絵で目立つのは、右上にあるどこか黒っぽく禍々しい大きな花弁の図柄です。次いでその下に長く伸びる黒い蔓と、それに付いているいくつもの小さな実のようなものでした。これはどうしようもないことでしょうが、私はついつい涙ぐんでしまいました。その大きな花弁に親たちやそれを取り巻く大人存在が、そして小さな<壊死しつつある>実に子どもらのことが浮かんでしまうのです。おそらくムシの居所がもう少しよかったら、娘の言うように私はもっとちがった絵を見ていたにちがいありません。しかしその相対性は認めながら、たまたまどころか長い間私のムシの状態はそのようなものだったと認知せざるをえません。
★「実顕」ということ
 この私の「顕れる」というイメージは、ご存知「実顕地」という言葉からくるものです。そして私(たち)が30年、40年前に「顕そうとしてきた実顕地」と「その後に顕れた実顕地」との乖離、特に教育面のそれに私は愕然としているのです。この乖離は、2000年当時はまだそれほどでもなかったのですが、私に「村」を離れる決意をさせるには充分なものでした。「何か異様なことが起こっているようだが、情報隔離と原因不明の自分のある思考停止状態で何が起こっているか解らない」から「いったんここを離れてみよう」と。そしてそれから10数年後の今、その乖離のとてつもない巨大さに呆れるばかりです。それも実は2000年当時までの実態であり、ようやく2016年に至ってその全貌、どころかまだその学育面がある程度認知されたということなのです。
  ところで私たちは何を顕そうとしてきたのか。それは言葉や理念に託された理想でした。学育・学園関係では以下です。
「無理暴力を通さずに、知恵と理解の研鑽で」「何人の子孫も永久に一人洩らさぬ楽園で、真の愛に抱擁(つつ)まるる」(会歌)
「研鑽会は、先生やおとなの人、みんなに教えてもらうものではありません。また、教えてあげるものでもありません。自分の思っている考えをそのまま言って、間違っているか、正しいか、みんなの頭で考えます。ですから、先生が言うから、みんなが言うから、お父ちゃんが、お母ちゃんが、兄ちゃん、ねえちゃんが言うから、するから、そのとおりだとしないで考えます」(子供研鑽会資料)
 また原文が今は見当たらないのですが、赤本では「子どもは農作業に使わない」という趣旨が述べられていました。
 しかしその結果は悲しいまでに明白なのです。それはいわゆる「変節」や「裏切り」という表現を越えた質のものでした。そうです、はじめはこれは、頻度のことでなく「質」のことでした。要するに係暴力、体罰のことです。それは極小だとしても、とても目立つのです。しかしそれはマスコミに叩かれていた頃のことだったのですが、現時点でコミックが改めて知らせてくれているのは、実はその時点でもおそらくほとんどの学育・学園で体罰が行使されていたらしいということなのです。いわば日常的にかつ広範に「理念・理想がその反対物に転化した」といってもいい。
 しかもそれが何らかの失策やミスではなく、「<理想社会>がわざわざ手塩をかけて育てたアンチ」という表現になると思います。おそらく世話係は、子どものことを思い真剣に全力投入して<個別研>や体罰を実行されたことでしょう。その進め方についても<上>と充分<研鑽>されたことで、係には何の疑心暗鬼もなかった。さらにその結果についても、まさに「善き意図はよき結果を生む」以外の発想は想定されなかったにちがいありません。
 ここで少し飛びますが、私(たち)はあの頃ある特有な<村人タイプを顕していた>のではないか。「実顕地」という表現に倣えばそれは「実顕人」ということになろうかと思います。躊躇なく、直ちに、理念を顕し行動実践する人でした。それはそれは見事なものでした。しかしこれは結果論、後出しジャンケンで申し訳ないことですが、この迷いなく、右顧左眄なく、声をそろえてオーの姿勢が、のちの体罰やその他のヤバイ対処にまで貫かれていったのではないか? 
 逆に考えれば、これらの理念、考え方の「実顕」はいかに困難なものであったかを証明しているような気もします。社会的に体罰・暴力は「非」と公認された現在でも、あちこちの学校でその事実がなくならないのです。だからこそ当時「教えない」「学育」という言葉は希望の象徴でしたし、学育に子どもを送り出してきた参画者親もかなり長い間、その理念通りの実践がなされているものと信じてきたのです。<まさかの噂>でしかないことが、ほぼかなりの事実であったこと、それが最近のあのコミックであからさまになるまでは。事実はおそらく一人のいわば「無着成恭」もいなかったのです。それを目指しての究明、研鑽、実践の日常の代わりに、体罰と個別研の日常が続いていたのです。安易な体制整備だったかもしれませんが、残念ながらそれで目いっぱいだったのでしょうね。
★体制擁護が「理想への反転」を生む
 そしてさらに残念なのは、そのことを隠し、沈黙し続けてきた(たぶん現在も)こと。「研鑽社会」のヤマギシだけはそうではないというのは、なんと世間知らず(また人間知らず)の浅はかな思い込みだったことか。昨今の政治家の、追求されるまで白を切り通す姿がダブってきて・・・・・・それも「善を為さんとすれば、多少の悪もやむを得ない」と決断した部署がどこかにあったはずです。しかもそれは誠実にも「急進Z革命」のためだったはずです。ゆるやかとはいえ人智の時代的進展というものへの、なんと浅はかで不明な決断だったことか。それも「上」を信じていたわれらも同様です。しかも「革命」や理想を信じていたとすれば、事実はまさにそれらの手法、手段によって理想を停滞・後退させたどころか、逆に理想をその反対物へと「反転」させてしまっていたのです。それこそ時の裁きの恐ろしさであり、今回以降のテーマのメインとしてして取り上げてみる必然を私に感じさせたものです。
 当然このことは学育・学園問題にとどまりません。私が2008年ごろにまとめていた論考「ジッケンチとは何だったか、2」において、次のような<夢想>を書いていました。
 「すなわち労働時間短縮、産業・運動の無限的拡大の歯止め抑制、逆に生活を楽しめる余暇の拡大、指導部の実質的自動解任、路線を巡る大衆的研鑽、情報の公開開示、時代の要請に応えての試験研究の広範な実施、シャバとの隔離でなく門戸を開いての真の豊かさ競争、子どもらの<世間>への留学と遊学……」
 ところが2013年村岡到「ユートピアの模索――ヤマギシ会の到達点」が世に出ました。まさにこの書の執筆依頼と出版こそが、実顕地<旧指導部>の長い沈黙への回答であり、せめてもかれらの誠意だと理解できます。それによれば、実は子どもらの朝食摂取、高等部生の通信制ないし全日制入学、実親の子育て参加(夕食を共になど)などの<改善>が2000年前後に集中しているのです。さすが利害への状況判断に敏い<指導部>のことだと感心しながら、同時にその<変身>の節度のなさに苦笑も禁じえませんでした(もっともそれによって救われた子どもらがいたことは評価しますが)。ただこの事実はいくつかのifを考えさせます。
 それはなんと巨大な決定力だったことか。まさに権力そのものです。しかしこれはまさに危機管理的対応そのものであって、もしこの決定がなかったならば、私が想定していた「村」離脱によるジッケンチの<自壊>がさらに進んでいたでしょう。そしてこの決定がもしその5年前になされていたとしたら、あのような大量離脱は生まれなかった? ただそれが可能なのは当時よりはいくらか開かれた「けんさん」体制が不可欠だったはず。したがってこのifは成り立たないでしょう。だからこそ(学園での実情を深く知る以前にでも)離脱が始まったのであり、それもその不可解な<研鑽>体制そのものへの疑問だったはずですから。
 そのようにある程度学園<改善>のテコ入れができていたのに、何を今さら「反転する理想」なんだと私が反問されて当然でしょう。しかしそれも愚問です。何を今さら『カルトの村で生まれました』なんだよ、と問うのと同じことですから。 私が問題にしているのは、たかだか2000年当時までの事態であり、「当初顕現しようと奮闘してきたねがいが、何ゆえにあんなにも無残な実態を晒すようになってしまったのか」という一点だけなのです。しかもその事実実態が知られるまでの、どういうわけか長い時日がかかってしまっているのですから、「今さら」とは私には「現在そのもの」とも言いかえてもいいのです。
★「心の決済」ということ
 しかしやはりそんなことに「何を今さら(お前は)そんなにこだわるのか」という疑問は残るでしょう。少し前までは私は「趣味みたいなもんですよ」と答えていました。「自分自身を知る」がその趣味でしたから、これまでクソ真面目にも関わってきたことを自己史としてあれこれ記述したくなっていたからです。ところがそれに娘の学育時代の「告白」が加わり、さらにあのコミックに触れてみれば、少々様子がちがってきます。ことは私自身のことだけでなく、まずは身近なわが子や連れ合いの人生そのものに関わり、わが家族の運命に多大な影響を与えてきた私自身が、まず心の底から家族にも納得のいく考え方とそれに基づく「行為」が不可欠になってきたからです。それは同時に家族を超えた人々への関わりにも連なってきます。
 このことの切実さは次のような娘とのやり取りからきたものです。「お父ちゃんたちは理想を実現しようとしてあそこに行ったんでしょう。それなのになんでこんなことになったの?」 この問いは私自身にも長い時を経て問い続けられたものです。そして帰するところはやはり私自身の愚かさでした。そしてわずかに「こういうことだって何らかの<反面教師>にはなるはず」という自己慰安が残されただけです。私だけのことであればそれでもよかったかもしれない。子どもらに「親の人生が理想と反対のことをなすために、しかもそれが子どもらに多大な負担を背負わせるためにあった」とは明言できるでしょうか!?
 私は最近このことを「心の決済」と表現するようになっていました。昔懐かしい「総括」とか「自己批判」ともちがいます。これはこれまで何度かくり返していることですが、他を責めたり(告発)また自分を責めたりしないで、自分の心を正そうとする姿勢ということになろうかと思います。もちろんそこには自己抑圧があってはならいことで、泣いて喚くだろうし、怒り心頭で震えることもあります。ただその大前提として、思いではなく事実としての被害―加害は避けられないことで、それも含めての事件(事態)の「依って来る所以の明知な認識」が欠かせないことです。それこそ過ちを再びくり返さないための未来への貢献となるわけで、それができるためにも、「責め」の心情はできればない方がいいのです。
 したがって私は現在、世話係の責任を問う気はまるでありません。その<上の旧指導部>についても同じです。かれらの沈黙も、そうしたいからであってそれを責める気はありません。ただ事実・真実にのみに関心があります。もっとも私は、これまではあまり考えないで、かれらのことを「恥ずべき沈黙」と書いていました。つい前の「変身の節度のなさ」も同じです。しかし急に修正するのもどうかと思い、そのままにしておきます。何を言いたいか了解だと思いますが、私のなかに今も「責め」のニュアンスがあるだろうということです。書くこと、話すことそれぞれに、内心の事実と微妙にずれるものがあります。今はまだその段階でしょうが、心していきたいと思います。
 そのことを通して自分の実態が明らかにされ、周囲の実態・実情も観えてきて、本当に子どもらにとって私(ら)に何ができるのかが判明してくればうれしいのですが。ぶっちゃけて言えば、世話係も、旧指導部も、そして早々とジッケンチを飛び出した私(ら)も、ある意味では加害者(特に幹部・準幹部とみなさてれいた人々)として「同罪」でしょう。これまでもずっとそう認識してきたつもりですが、あまりにも子どもらの置かれた状況の悲惨さが、改めてその感を深くします。「罪」という表現に多少の抵抗はありますし、「謝罪」「贖罪」というのもちょっとなじめない。私としてはせいぜい「罪滅ぼし」といったらいいのかと思いますが、どんな罪滅ぼしができるか、あれこれ考えてみたくなっています。
 ★「社会実顕地」の大標識は今も立ったまま?
 あの絵のことに戻りますが、あの絵の中心にある禍々しい部分からさらのその周辺に目を向けると、どこか明るくやわらかな感触が底の方で広がって見えるのです。私は長い「時空遍歴」とのつきあいのなかで、過去--現在往来の自在さというものを感得してきたつもりでした。しかしここで、それとなくある動きというのか、深まり広がっていくもの――を見たいと思うのです。それがもし未来にもつながっていたらという夢を見たいのです・・・
 ちなみに実顕地では、あの「ヤマギシズム社会実顕地」の大標識は今も立ったままでしょうか? 私はそれがもし今も立ててあったとすれば、なんとことばに無頓着な輩だろうかと思ったでしょう。しかしどうもそれができない部分も残っていることが想い浮かんできました。2016年に知りえた学育分野での<反面教師的な惨状>からすれば、あまりにも大甘な認識ですが、「無所有」のことが少し気になっているのです。そのことを次回以降につなげていきたいと思います。
2016622
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97歳児救出に思う  なにが「たくましさ」を育てるのか


 7歳児救出の報を聞くや、一挙にヨカッター! の歓喜が襲った。それも日本全国どころか、世界中だったとは驚く。そしてたちまち私は、これはどうも相当ワンパクな子どもが仕出かした<事件>だと断定していた。その直前までは雨にびしょ濡れの、あるいは熊に襲われた死骸のみが明滅していたのに。

 救出時少年の着衣は半袖Tシャツ1枚にジャージズボンのみ。なぜその子が生存可能だったのか? については――
「風雨をしのぐ空間がなければ、低体温症になるのは必至」
「人間は食べ物がなくても1週間くらいは生存可能。ただ水がないと脱水症状を起こすので生存は困難」(64「 スポーツ報知」)
 をクリアーできたからで、他の様々な偶然的好条件は既知だと思われるので省く。

 私の関心事は体力もあるが、その精神力と知恵だった。6日間も暗闇に耐えている。「子どもたちに疑似的に体験させる指導もありますが、相当な恐怖を伴います。パニックにならず、動かなかったことがリスクを回避したと思います」(「72時間サバイバル教育協会」担当者)
 また退院後の記者会見も、ちっとも臆したことのない、平静さだった。ズバリわんぱくそうなガキだった。

 もう少しその少年像を知りたかったのでの見つけた記事では、やはり卓球の長いラリーがうまく、ダンス、野球、サッカーも得意のスポーツマン。また機転の利くちゃっかりしたところもあったという。(東スポWEB 6/5)。

 さらにその子の育て方・育ち方にも大いに関心があった。家族像も私にはほとんど不明。祖父母、姉妹同居? テレビでは父のコメントは聞いた。「しつけ」等については言いよどんだり、訂正もあったようだが、それも含めて子どもを可愛がる実直正直な人と思えた。石を投げたりのワンパクぶりが高じて、思い余って<こらしめ>の挙に出たらしい。

//母は登場していないが、その暗闇をつんざくような大声で呼びかける後姿をカメラがとらえていた。
 また、「寂しがり屋でマッマと寝ないと夜泣きする模様」という投稿もあった。他の記事で確認できていないが、気にもなったし、そうかもしれないとも思う。

                         *

 いくつかのことが想い浮かんでくる。

 一つは、昔言うことをきかない子どもへの懲らしめ的なしつけに、「おうちに入れないよ」「出てゆきなさい」「お山に置いてくよ」などがあったと思う。結局、子どもが親になんらかのわびをいれ、許されたようだが、猛者や常習になると、村(町)外れの友だちのところに上がり込み、晩飯まで御馳走になって、そのうち親が迎えに来た、というケースも聞く。いわゆる村落共同体とか、向こう三軒両隣の長屋感覚が健在だった時代のことだった。今は親からちょっと離しただけで、えらい心配・警戒される。今回のケースはその教訓話になるだろうが、なんか世知辛い。ふと吉野弘詩を思い出した。


     忘れられて 

  ひっそりした村の通りで
  ゴムまりは、長いこと
  子供の掌と空の間を往復していた

  働きに出た親たちは
  子供たちを、きれいさっぱり忘れているだろう
  病気がちの年寄りのことは忘れないだろう

  不幸は、脳裡に
  重石のように宿ってしまうが
  幸福は、むしろ
  軽やかに忘れられるのだ
 
  もちろん
  頑健な親たちも
  子供たちから、きれいに忘れられて
                            

 個で、あるいは一家族で完結しないでもいられる、いいかえればそのことを「忘れ」てもいられる――そういう世界があったということ、その豊かさと幸福の方こそ、われらは忘れつつあるようだ。

                         *

 当然、ヤマギシの子らとも関連してくる。かやさんコミックでは、〈村の子の外遊び〉の中で、「探検と称して森へ行って遊ぶの」とある。群れでいろんな難所やジャングルを探検し、男子であれば秘密基地制作。落とし穴など「大人に見つかったら怒られることを積極的にやっていた」。「でも世話係や大人は森へ入ってこないので、私たちは何かと森へ出掛け(逃げ)た」とある。娘と話していたら、「でも遅くなって夜にかかると熊が・・・」えっ熊が出たの! 「いやクマオさんが迎えに来たの」(笑)。
ここまではヤマギシ育ちの子どもらのたくましさの賛辞につながるし、上述の7歳児のことも、「親のしつけの意図も、結果的には子どものたくましさを証明する機会となった」という見方にもつながる。

 私にとって胸が痛む最大の問題は、Oさん記述にもあるように子どもらが夜中までかけて親のいるジッケンチに向けて<家出>を決行していたことである。<成功した>とか、警察沙汰になったかどうかまでは知らない。
 そういう記述はコミックでは見当たらないが、親関連では「小さな頃は親と会って別れる日が来るたびに泣いた<問題児>」(特に初等部に入って以降の「家庭研鑽」の翌朝)。以下その説明を引用する。

「一番甘えたい盛りに親がそばにおらず周りは世話係・村人・学校の先生など微妙に距離のある大人ばかりで」「何を言っても〈なぜそう思うの〉〈もっと素直に「はい」で聞こう〉〈あんたは子供らしくないね〉と言われ、その結果自立神経が乱れ心も体も不安定に」「小学校卒業までおねしょが治らなかった」。

 (このオネショについては、冬でも水をかけられた体罰があった(「元学園生の手記」その他)ようで、驚く。もう大昔だろうが、私が深く感銘したヤマギシ初期の書に『天真爛漫』があり、そこには「研鑽によるオネショ解決法」が語られていた。その考え方・実践が、その後どうしてそのような乱暴な方式に変貌していったのか???)

 そしてそのかやさんの最後の締めくくりが、「小さな頃は親といっしょに暮らせないくらいなら、生まれてこなければ良かったとずっと思っていた。〈私は絶対に子どもを産まない!!〉〈決意〉生まれた子に同じ道をたどらせたくなかったのだ」とある。  
私はガーンと打たれた。わが娘の「一人で闘うしかない世界で、長生きしたいと思ったことはなった」という<告白>から受けた衝撃と同じものだった。すなわち<強いられた人生否定・喪失>の証言だったのである。

私は一応問題はなかったと考えている(おそらくあっても知らされていなかった)幼年部のことも、あらためて本来の親の姿から考えての「人為性」が気になっている。

 ともあれ子どもらのシビアーで不幸な体験も、結果としてそれによって鍛えられ、生かされていったこともあるだろう。またそうできなければ自分自身の人生を切り開いてはいけない。しかしそれによって身についた<たくましさ>は今回の7歳児のたくましさと明らかにちがう。いうなれば係から逃れるためのたくましさであり、親の愛を喪失した<たくましさ>だった。
そしてこの最大の<皮肉>は、世話係も将来の子らのたくましさを想定して、体罰を行使したわけではなかろう、ということだ。もしそれができていたとしたら、それは<神の領域>に入るだろう。

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2016/6/12




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8 ()学園の実態に無知だった親の<心の決済>

もう元子どもらには答えが出ている
先回娘の個別研体験について書いてみて、その後の二人の雑談的回想も含め、あらためて気づいたこと(気づかされたこと)がいろいろ出てきました。たとえば
「あのコミックの場所は豊里や春日じゃないよ。多分もうちょっと小規模なところ。といっても上に倣えでかなりきついけど。そういえば美里なんかあんなきつい感じじゃなかったと聞くよ」
「その美里だったかな、○田さんという係がいて、とてもよかったってみな言ってたよ。その人も豊里に替わってから出会ったときは何かとてもしんどそうな顔してたっけ」(私には豊里初期の世話係で子どもをお兄ちゃん感覚で世話していたらしい彼のことが蘇る)
「わたしは春日の幼児舎で○出のおばちゃんにすごく可愛がってもらえたのを覚えている。それから学育に行ってからだんだん変わっていったよ。あのブドウの世話していたRちゃんの畑によく覗きに行ったし、彼も学育舎によくやってきて声をかけていった。それがいつの間にか私らに会ったら避けるようにしていたよ。なんでかなと思った」
私がいわゆる学育の<牧歌>時代と名づけているころのことが、娘にはあらためて印象深かったようです。私も阿山の世話係で高学年のKやSらと一緒にプロレスを観ていたころでした。それがいつしか後の<ビシバシ>時代に進んでいたのです。私はなにも<牧歌>がよく、ビシバシはまずいと考えているわけではありません。ただ小さな幼い子どもらの心にとって、なにが生きる力となってきたのか、未来のことがあまり想像できなかったあの当時とはちがって、20年30年は経った現在です。おおよその答えはその個々の元子どもらの心にキャッチされているのではないでしょうか。そしてその<結果>を通して私たち親や大人たちは、あまりにも遅すぎる(かつ修復が間に合わない)のかもしれませんが、あの頃のことを、もっと深く広く学び直すことができる(許される)のではないでしょうか。 
親としての必須感覚(親主体)の喪失
あの頃には私に全く見えていなかった光景が娘との30年後の<不意の和解>によって、見えてきました。いいかえれば私の抱いていた光景が娘のそれとつながったからです。そしてその光景の意外性・深刻さはもちろん、そこに親子の深い断絶があったという事実にうちのめされたのでした。そして、その断絶が埋められていくと同時に、逆にOさん同様、親である私自身への問いかけが生まれてきます。なぜその断絶が今に至るまで見えなかったのか? それは当時の私の何が欠落していたのか? その欠落は今も続く私の何かなのか? という問いかけです。これは極めて真摯なかつ不可避な問いでしょう。
しかし私は何度かこの問いを自分に課してみて、どうしてもある焦燥感と徒労感に襲われるのです。答えのすぐに出ない藪知らずに、自分を否定的に追い詰めるからでしょう。当時の、子どものことは学育に任せたままという依存姿勢、専門分業感覚、親子の日常感覚の強固さなどに、はね返されるばかり。どこに爪を立て、裂け目を探しえたでしょうか。おまけに当時は「自分のことは置いといて他に合わせる」いう日々の<研鑽>になんの違和感も抱きませんでした。だからこそその親子の<深淵>が見出だされるのに、長い時日を要したともいえるのです。それでもあの世話係暴力のマスコミ報道でこの運動・組織はヤバいのではないか、とまでは気づき始めました。それでもまだ表面をなぞっていただけ。そのことをオロカだと思い、「想像力」が欠如していたととらえたとしても<全くその通りという空しさ>しか残りません。空しさを通り越して、そのオロカさを嗤うしかありません。

とはいえこのことは、そういう姿勢・態度のこともあるでしょうが、もっと深く親子のありようにかかわることです。現在の時点でリアルに考えれば、私がその当時娘の異常さに気づきえたとすれば、おそらくわが子の一番肝心なことはまず親しか知りえないという必須感覚が明らかに存在し、またその感覚を日々研ぎ澄ますことが不可欠だったはずです。
しかしそういうことは不可能かつ不必要な世界、「身代わり」「任せ合い」の理念のもとに私は安住していました。中には、そうでない親もいたでしょうが、まわりから「子を放せない」親と思われ、いつのまにかムラから消えていたでしょう。逆に問い返せばその親としての必須感覚の喪失は、「親主体の喪失」とも考えられます。そのことは同時に子どもらの親に「捨てられた」という絶望にもつながっていたはずです。こういう親失格は親子の真実についてより深く考えてみることもなく、<理念>の命ずるままに安易に子どもを離す時点から始まっていたのではないか、と思い返されてしまうのです。
しかし今その異様さに少しは気づけるのも、私たちは少なくともあの当時の理念の縛りをとき、当時とは多少とも異なった人としてのありようを生きているからです。だからこそそれをさらに意識化し、親子のありよう、人と人とのありよう、人生観、世界観等について従来の観念・感覚を根本的に組み換え直すことが、必須となるはずです。それこそ「主体」の回復と「ことば」の回復(あるいは確立)にあたる営みとなるでしょう。Oさんが自分史の再検討を語るのは当然なことだと思われます。私もここ10年自分史を書き綴ってきました。それはヤマギシの<総括>から始めたものですが、「いったい、おれのこういう人生って何なんだ!?」という根源的な懐疑から発するものでした。そして、それに今新たな章が加わってきたようにも思います。 
★子らの「自分」を取り戻すための長い時間
しかしさしあたりは、私はもっと何が、どのように見えてきたのかを、いろんな角度から知りたいと思いました。まだまだかやさんショックが始まったばかりです。娘との雑談だけでなく、旧友旧知の人々との交流を通して、私自身のささやかな記憶をつなぎ合わせながら。
それでまた娘の<個別研>のことに立ち戻りますが、あの場でわが子が「人格否定」に類するようなことを指摘され続け、それが心的障害に及ぶようなことは、おそらく当時の係も知らなかったでしょうし、私も娘の<告白>に出会うまでは事の重大性にほとんど無知でした。私も幼年部にかかわってしばらくしてから、世情の動向もあり「母子分離トラウマ」のことが気になりました。ただ特に問題事例に出会うこともなく経過していきましたが、高学年のことまでは考え及びませんでした。<個別研>の影響については人それぞれに差異があることでしょうから、ちなみにあの「元学園生の手記」を読み返してみました。
「その環境の中で、私は〈言われたことをそのまま『はい』で聞くのが良い〉〈自分の思いを正直に出さない方が、対立が生まれないから楽に生きられる〉と決めて、そのように生きてきた。今のファミリーのメンバーになってから、周囲の人に〈正直じゃないね〉と言われることがよくあったが、そう言われても、私は自分の正直な思いが何なのか、ほんとうに分らなくなっていた。ファミリーではよく〈個性を生かす〉ということが言われているが、それを聞いても〈個性って何?〉という感じだった。」
「仲間同士、仲がいいと思っていたけれど、自分の保身のためには、自分がされたら嫌なことも平気でひとにしてしまう。学園は、そういう人間を育てていく環境だったと思う。」
こういう感覚は、ニュアンスは少しちがいますが、その土壌はわが娘の感覚と共通だと思われます。その心情は「ともかく係から言われないよう必死に」「だれにも頼らず自分一人で闘っていく世界」でした。当然そこには一緒にやっているメンバーとの仲間感覚の喪失もあったはずです。そして娘の場合、なんといっても「――自分の好きなことで人生を楽しむという気がまるでない。だからこんな人生なんていつまでも続いてほしくない、長生きしたいと思ったことはなかった」という娘の言葉がザクリと刺さったままです。こういう感覚で生きることの不幸を、娘は今はすっかり忘れたように生き生きと生きています。だからといって私はそれで○とはならないと思います。それまでにかかった長い時間のことを忘れるわけにはいきません
たしかに娘たちの「自分の正直な思いがわからない」「自分一人で闘っていく」世界ということは、残念ながら自己肯定、自尊本能まで失った姿でしょうが、逆にいえば生存本能、自存本能までは失ってはいないのです。というのは、ここ3年来(あるいはもっと以前から)、いじめ自殺、「体罰」による自殺のニュースが途切れることはありません。自分が生きること自体を否定してしまう子どもらが、現実になんと多くいることか。学園でも個別研のみならず体罰(暴力)によってそういう子が出ていないのかどうか、うわさや類推では聞いたこともありますが、気になるところです。
そのマイナスの極点からさらに逆にたどって、そのようないわば<虐待>にめげず、受け止め・立ち直っていった子どもらもかなりいるようです。なぜそういうことが可能だったのか、私も数少ない事例で考え中ですが、一つのヒントしては、そのいわゆる自己肯定、自尊本能(自分を愛する)を失うことがなかった場合ではないかという気がしています。そこに育ち方とか親のありようとかがかかわってくると思われます。 
★親としてのオロカさと<強いられた>オロカさ
ところでそれ以降、娘は高等部・大学部までなんとか頑張るのですが、それでも時にはそのガンバリが切れたことがあって、係批判を口走り私ら親の部屋まで飛び込んできたことがありました。あくまで当時の状況の一証言として、娘の<告白>メモから引用します。
「あの時父ちゃんはノートを広げてメモしながら話を聴いてくれた。指摘したり、否定したりする大人ばかりだったので、はじめて聴いてもらえたという気がした。中等部から高等部に行くときは親からいろいろいわれたがあの時は、表面だけで本心からでなかった。」
 このほぼ20年前の記憶は、娘から私への唯一のか細い信頼の糸でした。そのとき私はどうしていいかわからず、ただ娘の思いを初めてじっくり聴いてみただけでした。なにも親としての心根がよいなんてわけではなく、ただ娘の異様な鬱屈を放置できなかったからです。そして改めて、それこそ(メモなぞとらなくともよいが)親としての当然のありようだったと思い返されるのです。その後娘はなぜかおとがめもなかったようで、しばらくして大学部を卒業していきました。
ただそのころからでしょうか、体罰情報もすでに知られ、これまで全心身を投じてその建設と拡大に奔走してきた(後半ごろ、どういうわけか私は学園の実情報に触れにくい位置にいました)私に、学園への深い黒々とした幻滅が確定的になったのは。学園ノン!の灯が点ったのです。どこかで期待していた大学部といっても、高等部生を農作業に動員する下準備が大学部生の主たる仕事だったのです。農作業に意味がないとは言わないが、その場当たりな体制も含め、どこに「大学」の名を冠するに価する学びと創造の実質があるのか?  
そして引用の後段にあるように、その数年前には当時中等部から高等部への入学に消極的だった娘を、私は必死に説得していたのです。しかし、今となってみればその娘の気持ちはよく解るというしかありません。もう当時すでに学育・中等部で個別研その他の<かやさん現象>をもろ全身で浴びていた娘に、高等部への幻想はほとんどなかったのではないか。それにもかかわらず親のことを想い、健気にも大学部まで行った娘への、私の期待のあまりにマンガ的な幻想性に呆れ返るばかりです。込み上げてきたのは、歯ぎしりするようなわがオロカさでした。初めに挙げたような一般的なものではなかった。

--本当にその時点でも、子の置かれた環境の異様さをキャッチできておれば、いかにオロカであろうが、もっとちがった対応ができていたはずと悔やまれてなりません。しかし今となってはそのオロカさを噛みしめ噛みしめ、その先のわずかな「智」のゆらぎだけでもほの見たいとねがっています。
ただそうはいっても、この問題にはどこか「強いられた」という疑念がかすめないわけにはいかない。すなわち情報が意図的に<封印>され、体験当事者の成長によってしかその実態が(いわば長期の自然時間的にしか)明かされないようなこととは、いわば<封印の大成功>であり、われらがオロカに見えた一要因でもあります。やはりそこでは、関係当事者の意識や思いとは一線を画した、客観的な社会理の原則による原因―背景の究明がなされるべきではないでしょうか。それは個々の親の「心の決済」に資するものであると同時に、私には過ちや失敗に類することも未来に資する「社会実験」の観点で見直してみる報告にならないかという期待もあります。その原則はやはり「告発なし」になるのではないでしょうか。

//提案としては私の先走りのようでもあり、かつまたメチャメチャ遅すぎることでもあります。とはいえ、さしあたりは個々の親の現時点での感想報告・交流が、そのはじまりになっていくものと思います。


2016/5/27
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7ことばを得る(回復する)ということはどういうことなんだろう
 ――やっと出会えたそれまでの時間の長さについて   大内義之
■私に無知だった私
福井さんの『(97学園の実態に無知だった親の<心の決済>』を何度も読み返しました。
かやちゃんの目に映るお父さんの姿とその時お父さんの頭に浮かんでいた景色の違い、A子ちゃんの瞼の奥にある私の姿と私が思っていたことの誤差、そしてバイバイと手を振るK子ちゃんの瞳の奥にあるお父さんの姿とお父さんが考えていたことのズレ。
その余りにもかけ離れた愕然とする1対の視線=思線の違いを今、ようやく今30年という年月を経た今、交互に行きつ戻りつしながら見つめ直す機会を得たこと、かけがえのないたった一人のお父さんにも気づいてもらえなかった、かやちゃん、A子ちゃん、K子ちゃんの心のうちを今、ようやく乏しい想像力を駆使して観て見ようとしていることに気がつきました。
そして、これまで1度として交わることのなかった娘さんとお父さんの2つの視線=思線が「ようやく交わるその日が、やっと来たんだ!」とこらえきれず涙が溢れてきました。
「やっぱりそうだ。そうだったんだ。」と
 そして、交わるその日は必ず来る。という確信めいたものを感じました。そして、同時に何故そのとき、今見えてきたように見えなかったのか・・という問が正面に現れ、それにおそるおそる向き合って見ようという想いがふと湧いてきます。
向き合い方はただ一つ、その場面の記憶を今の私の乏しい想像力を駆使して見直してみるというシンプルな問であるということも気づきました。私の歩んできたと思っていた自分史をもう一度描きなおしたいと心が動いた気がします。
「反省」の哲学的意味を体現する機会であるのですね。正に『自己哲学』ですね・・・。ですから「学園の実態に無知だった親」という表題の視点がいつの間にか進んで、「我が娘に無知だった私」からさらに「私を知らなかった私?どうしてかな?」という表題に向かって現在進行中・・・という感じですかな・・・・。
■知っていくヒント
福井さんから石原吉郎さんの詩・文を紹介され、何冊か読み進めているうちに気づくことが結構ありました。敗戦後シベリア強制収容所8年間の体験の中で見ていたもの、その後戻ってきた戦後の日本に何を見たのか・・という詩とエッセイです。
最近読んだ『一期一会の海』の文章の1節に【出会わぬこと】
「対座はしていても、誰にも出会わないときがある。」とあり、「それはそれでよろしいのです。」とあり、
「それもまたひとつの出会い方だ」とあり、「ひとそれぞれに、身近かな人に、身近な故にこそ出会わないのであろうか。」「出会ったとたしかに思った人に、実は出会っておらず、なにげなくすれちがった人に、実は出会っているのではないか。」とありました。
また【〈体験〉そのものの体験】
「〈体験〉のひとつひとつはそれぞれに隣人の関与し得ない孤独な出来事だったのではないか。」とあり、「それが本来の大きさと深さで受け止められるためには、なによりも主体の回復、それを考えるためのことばの回復、その回復のための時間が必要だ・・」とあります。
「最初に訪れる衝撃は、おそらく偶然なものであって、いわば運命のように人に訪れる。これに対する反応は多かれ少なかれ肉体的防衛的なものであって、起こったことの意味を理解し得ないままで、記憶となって内部にその痕跡を残す・・しかし、〈体験〉の現場から遠ざかった時点で、〈追体験〉として起こす行為は、それはもはや意思的に必然性を持った行為となるわけです。」
「主体的に受け止めて追跡していく過程は必然的な過程とならざるを得ない・・・」「〈原体験〉が目を醒まして行く・・」「〈体験〉を受け止める主体の回復がなければ〈体験〉そのものはもはや存在しないということを知った」・・・とあり、「絶対の前提となったのは〈告発の姿勢〉や〈被害者意識〉からの離脱ということであります。」と記していました。
1976年の文章です。抜粋引用では解かりにくいですが、 今、私の「位置」と「姿勢」について考えるヒントになっています。
■ことばを得るということ
 幼いK子ちゃん、A子ちゃんに起こったひとつひとつの出来事が時を経て主体を得、ことばを得、ようやく〈体験〉として意思的に必然的な過程を経て目を醒まし、ようやくかけがえのない自分の存在に出会い得たのだと思えてなりません。ことばを得る(回復する)ということはどういうことなんだろうということを考えています。
沈黙という表現実態。そこにまぎれもなくあることやもの、あったであろうことやものが、形を得てことばを得て、あったと今認識できる=知ることができるのだろうけれども、知るのことのできるのは、そのことのあったはずのずっとずっとあとのこと(20年後30年後)。それが時空を超えて「知る」にたどり着く過程、思考回路=ことばの超越性について思わされます。
 あまりにも、今見えているらしい目の前のほんの現象のかけらをうすっぺらいことばでかるくもっともらしく表現して知ったかぶり=知ろうともしない態度に愕然とします。
 ことばにならなかった2030年という時間を想像しています。たった一人の私=A子ちゃんやK子ちゃんがこの世に存在していたこと、今存在していることのわけをことばを得ることで初めて知るのですね。
当時のその時の自分の姿がどのように今見えていたのか、幼かった時の自分の姿が今の私にどう映っているのか、かけがえのないこの世でたった一人の私のいとおしい姿としてもっともっと早く見えていたなら、自分の姿に出会える回路がもっと早くみつけていたならと思います。でもそれには相応の時が必要だったのですね、でも悔しいです。でも嬉しいです。
K子ちゃん、A子ちゃんが、今のお父さん、今の私を通して、当時の自分の姿をくっきりと捉えられたように、肝心なことに辿り着くまでに、沈黙の長さがこれだけ必要であったように、一人の存在というものが、その一人として真っ当に扱われることなく、浮ついたことばで軽々と多弁に過ぎていく周囲のあれこれをじっと耐え続けて、やっと語るに至った時間のことを思います。
個別の体験であるし、一般的な筋道があるとは思いませんが、その人の『主体を回復する=ことばを回復する』ための私の対座のしかた、普遍的な位置というものが、一人一人の中に備わっている気がしてなりません。急がれるとも思いますし、会えなくてもまたそれでよしという静かなところからいこうと思います。
かつて目指していた「解放教育」に「語り」という作風、「識字」「綴る」という過程がありました。
かつての自分の位置や姿勢について、今の立ち位置について螺旋状に繋がっているかも知れないとふと思いました。『子どもが育っていく=ことばを獲得していく』を思うとき、ことばの奥に潜む実体を、このことばでしか表しようのないようなことばの精緻さにこだわってこなかったなと今思います。ボキャブラリー不足ではなく、想像力不足かな・・・
じっくりとそのものにむきあって、じっと見つめ、耳をスーとすまして、肌をなめらかにして、そのことを知りたい、知っていこう、感じていこう、そして自分のことばでぴったりすることばで 表してみようとしない性急さから来るのではないでしょうか。じっと静かに・・・何日かけても 何十年かけても。
『歌は唖(むご)にききやい /道やめくらにききやい /理屈やつんぼにききやい /丈夫やちゃいいごばっかい』鹿児島俚諺 が蘇ってきます。 (つづく)
 2016/5/16



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プロフィル
HP運営  福井正之 
元ヤマギシズム生活体所属
  現在パート作業員


リンク
「日々彦通信」

 
資料編
ジッケンチとは 何だったのか?
「ヤマギシ学育」って何だったの?
詩集 『今浦島抄』

反転する理想
  福井正之
(学2)暮らしをつくるもとの事実
(学1)「自分の仕事」とは何か
(51)「特講」がこれまでとちがって観える
(50) 一体ならぬ同化、ひっかかりの我執化
(49)<オールメンバ―研>の行動
(48)<自発的自己抑制>の構造
(47)なぜ自分を偽るのか?
(46)イズム、イデオロギーへの嫌悪と見直し
(45)「人生」への眺望を組み込んで
(44) 真理って?、だが真実なら
(43)2000年頃の私(たち)から
(42)「問い直す」ということ
(41)吉田光男さんの逝きて「逝かざるもの」
(40)「分身」について考える
(39)「アヒルの子」から「白鳥」へ
(38)「書物の恵み」について
(37)蘇る50年前の記憶と記録
(36)(続)「さよなら、カルト村」感想
(35)「さよなら、カルト村」感想
(34)「人としてのありよう」を
(33)わが「清算」ノー
(32)?投稿? 「清算」ということ
(31)幼年部再考 思い出されること
(30)「オネショ研」とは
(29)幼年部④時代からの影響
(28)幼年部③「離す」「離れる」の原型
(27)幼年部再考 ②乳幼時体験
(26)幼年部 再考への足がかり①
(25)「生存戦略」としての年金のこと
(24)最新SF「真心の<実体化>」の恐怖
(23)ラジオインタビュー
(22)<権力>化への、わが<貢献>②
(21)<権力>化への、わが<貢献>①
(20)満員バスの中からの問い
(19)社会的悪業へのひとりひとりの貢献
(18)ムラ離脱後の〈失語〉から
(17)「引用」とは? 「反転する理想」は
(16) 反転しなかった理想の模索
(15)<理想大反転>の歴史的考察
(14)「理想する」ということ
(13)理想「主義者」ということ
(12)「理想」というものをどのように
(11)「過去」から「情況」へ そして子どもら
(10)顕れたる「理想」を問う
(9)7歳児救出に思う 
(8)(続)学園の実態に無知だった親
 
(7)ことばを得る(回復する)  大内
(6)無知だった親の<心の決済>
(5)今、真面目に振り返ること 大内
(4)時を経て必ず表れるもの 番一荷
(3)コミックエッセイへの   カトーノフ
(2)あのコミックから、学育世話係 
(1)『カルト村で生まれました。』 

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